일본인 견해


    


아래의 내용은 일본인 친구인 Mr.Masahiro Murai(村井昌弘)가 2005년도에 필자에게 보내온 원문입니다.

독도를 둘러싸고 한일간에 팽팽한 대립이 있었고 역사왜곡으로 두나라 사이에 긴장감이 높을때였습니다.
2004년 4월20일자 일본잡지 文春新書에 실린기사에다 자신의 의견을 개진한 내용입니다.

우리와 이해의 괴리가 너무 넓다는 점을 알수 있습니다. 여러분들에게 일본인들이 갖고있는 인식의 범위를 
알릴수 있을 것으로 기대합니다.

"무라이"씨는 2007년 7월15일 폐암으로 향년 68세에 돌아가셨습니다. 그해 3월중순 일본에 갔을때, "나가노"
시에 있는 자신의 집에서 투병하던 그를 문병하겠다고 했으나 그는 끝내 거절했습니다. 6월에 한국에 갈테니 
절대로 자기집에 오지 말라는 전화통화가 그와의 마지막 대화였습니다. 자신의 처절한 마지막 투병모습을 
한국친구에게 보여주기 싫었을 것으로 추정할뿐입니다.

필자보다 3년위인 "무라이"씨와는 1974년에 처음 Buisiness로 만났읍니다. 그와의 사업은 3년도 채안돼 
끝났지만 30년 넘게 친구로 남았습니다. 다른 일본인과는 다르지요. 유창한 영어실력과 우수한 두뇌,
풍부한 감성과 드높은 자존심이 돋보인 친구였습니다.

그는 또한 한국의 고대,근대,현대사에 대해서도 해박한 지식을 갖고 있었습니다. 그가 한국사를 보는눈은 우리가 
알고 있는것과 사뭇 다르다는것을 알수 있습니다. 그렇지만 그  내용을 여기에 올리고자 하는뜻은 서로가 
갖고 있는 인식의 차이점을 알고자 하기 때문입니다.


진심으로 그의 冥福을 빌면서....(2008년 4월)


<獨島 지도>

1. 위치
동도가 북위37도 14분 26.8초 / 동경131도 52분 10.4초
서도가 북위37도 14분 30.6초 / 동경131도 51분 54.6초

2. 거리상
경북 울진군 죽변에서 동쪽으로 216.8km, 울릉도에서 동남쪽으로87.4km 떨어져 있습니다.

구성 및 면적

3. 섬의 구성 :
동도와 서도의 2개의 큰 섬과 89개의 부속 도서로 이루어져 있으며 동도와 서도간 최단거리는 저조시 기준 151m 떨어져 있습니다.

4. 면적 :
총 187,453㎡에 달하며, 동도는 73,297㎡, 서도는 88,639 ㎡, 기타 부속도서는 25,517㎡ 입니다.

5. 높이 :
동도가 98.6m, 서도가 168.5m로 서도는 원추형을 이루고 있습니다.

6. 둘레:
총 5.4㎞(동도2.8㎞, 서도2.6㎞)로 동도에 선박접안 시설이 있습니다.



竹 島 問 題 (2004年7月4日~8月28日) 「竹島は日韓どちらのものか」/下條正男/文春新書/’04.4.20.刊 竹島問題が、またまた大きくクローズアップしている。この問題は、日韓間の問題にとどまらず、日中の尖閣諸島、 ガス油田採掘、あるいは日露の北方四島の問題にもつながっていると見ている。 日本政府は、竹島問題を放置 (なあなあと問題先送り) してきた。その結果、両国は日本政府の外交姿勢をに学んだ。 侵略的ともいえる、ごり押しにも似た事実の構築(→実効支配の確立)、口先だけの日本政府の抗議、それに対する 関係国の無視。戦前ならば、これだけで開戦の理由になるが(例:中露間の国境線を巡る武力衝突)、日本は兵を 起すができないことを知っている。 そもそも竹島問題の端緒は、①安龍福の虚言、あるいは誤解と②李承晩大統領による第二次大戦後の強烈な反日思想 +感情 (これが韓国政治家の大衆におもねる基本的形質を作った)によると言える。これを現在、解決することは至難 のことであろう。次の問題があるためである。 1.両国間 排他的経済水域が12海里から200海里に拡大、水産資源、海底資源の重要性が飛躍的に認識されてきた。竹島は、 国際的反対を無視した李ラインの設定と漁船の拿捕、次にこの排他的経済水域の国際的合意によって クローズアップした。 そして今回である。 2.日本側 1)国民の無知、無関心(竹島問題そのものを知らないこと。「日本海の小さな孤島など、無用」など) 2)無責任な政府、事なかれ主義の政府 3.韓国側 1)日本の植民地主義と連動させた理解、教条主義的理解。その結果、感情論が先行し、冷静な話し合いを拒絶 2)日本領土と持論を主張できない歴史学者ら、そうした学者等を国賊とする社会 3)国賊の汚名、落選を恐れる大衆迎合的政治家 4)戦後60年間、国定教科書(一種類)による小学生からの「独島(竹島)は、韓国領」する刷り込みとそのように教育 された人の増大化(人口の大部分を占めるに至り、最大問題と化す) 5)既得権の主張 以上のような問題を背景にもち、その上、経済的利権がからんだ竹島問題は、両国間だけの話し合いでは、 既に解決不可能な状況と見たほうがよい。先ず日本国民が正しく歴史を理解し、その上で国際裁判所と いった第三者を交えた話し合いが、かすかな解決の可能性を示す。 こうした活火山のような問題を残していては、小泉首相がいう「未来志向の両国関係」の樹立などとても 無理な話で、問題を先送りするための口実にしか、聞こえない。 真の友好関係を樹立するため、竹島問題のみならず、色々、研究する必要がある。以下、その一助とするために、 下條先生の著述を参考にして、要約した (一部、村井の私見、研究を含む。小見出しも村井による)。                            (2005年4月6日 村井昌弘) 第1章 領土問題の始まり 1.竹島の位置、面積等 1)位置 北緯 37度9分、東経131度55分(松江から220km、蔚珍から215km) 2)面積等 西島(男島、海抜174m)、東島(女島、同99m)、合計0.23km2 (日比谷公園程度) 3)帰属問題の発生 ・ 1952年1月18日、李承晩ライン(平和線)設定後、李ライン内に竹島含めた後に発生。 ・ 1954年9月2日、韓国、武力占拠 ・ 1954年9月15日、韓国が「灯台を建設、8月10日から運用」の事実を日本に通知。 ・ 1954年9月25日、日本政府は韓国政府に竹島問題の国際裁判所への提訴を打診、同10月28日、 韓国政府は拒絶。 ・ 1996年2月、韓国は東島に接岸設備の建設開始。 ・ これに抗議した日本政府に対し、韓国各地で反日デモ発生。 4)両国の地理上の住所 ・ 日本:島根県隠岐郡五箇所村 ・ 韓国:慶尚北道鬱陵郡 2.韓国の歴史書(中学生用「国史(下)」の一例) 「日帝は、日露戦争(開戦、1904年)中、独島を不法に奪った。」 ・ 竹島問題を日本の侵略的性向を教える材料にしている。 3.竹島問題の端緒と経緯 ・ 近代以前、竹島に付いては、日韓間に領有権問題が出たことは、無かった。 1)日本政府の声明 1905年1月28日「他国ニ於イテ之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」の無いことを確認、閣議決定で 日本領とし、同年2月22日、島根県知事、松永武吉が島根県告示第40号で竹島の領有を公示した。 2)1906年5月9日号皇城新聞が「独島は、日本の領土になった」と報じた。 3)1945年8月15日、日本の敗戦。韓国政府は「過去の清算を求め」「領土回復を意識」した流れが起き、 1949年1月17日、李大統領は「対馬も韓国領である」と主張するまでになった。 4)1946年1月29日、GHQの暫定的措置(訓令第677号)で竹島を「日本から除外される地域」としたが、 1951年(9月9日調印)、「サンフランシスコ条約」第2条(a)項で竹島は日本領と認め、国際的に日本 領土とされた。 5)韓国政府、同条約発効(1952年4月27日)前に「李承晩ライン」(平和線)を宣言し、竹島の領有権を 主張した。さらに1964年、鬱陵島に「安龍福将軍忠魂碑」建立。 6)韓国政府の韓国領とする根拠 ・ 歴史家、崔南善の説明に基づく(このことは、日韓国交正常化交渉韓国側第5次代表、兪鎮午の 原稿に明記している) ・ 崔南善、Seoul新聞に1953年8月10日~9月7日、「鬱陵島と独島」を連載し、「独島は、韓国領」と主張。 ・崔南善は、「粛宗(在位、1674~1720)実録」にある漁民、安龍福の記載を根拠としている。 ・ その記述に「安龍福が密航し、鳥取藩主と直談判の上、鬱陵島と松島(当時の竹島の呼称)は、 朝鮮領であることを認めさせた。」とある。[安龍福の証言は、1700年ころ] 7)日本史文献上の初見 1667年、出雲藩藩士、齋藤豊仙、藩命により「隠州視聴合記」を著し、その「国代記」の部で「鬱陵島と 松嶋を日本の西北限」の領土と明記した。 4. 日韓両国の歴史書における鬱陵島に関する記述と日韓漁民の衝突 1)韓国の歴史書 (1)朝鮮地誌「東国與地勝覧」(1481)の記述 鬱陵島は、昔、于山国と称す。新羅智証王13(513)年6月、異斯夫(武将)が攻略し、新羅の所属、 新羅滅亡後、高麗に属し、その後朝鮮に属す。 (2)朝鮮太宗17(1417)年2月、鬱陵島への渡航を全面禁止、空島政策を採る。仮倭防止のため。 [世宗実録(世宗28/1446年10月壬戌条)で、中枢府判事、李順蒙が「倭人は12に過ぎず。しかして 本国の民、倭服を仮着し、党を成して乱をなす」 (3)太宗実録(太宗16/1416年9月庚寅条) 「或る時、倭を仮りて、寇を為す」 (4) 空島政策の例 ・太宗17/1417年2月(太宗実録)、于山道(竹嶼)から15戸、男女86名を連れ出し、世宗7年(1425)年 10月、世宗の命で忠清道の深遠の地に移す。 (5)空島政策への変化(?) 李晬光、「芝峰類説」(1614)、「近く倭奴の礒竹島(鬱陵島の別称)を占拠するを聞く」と記す。すなわち 日本人が鬱陵島で鮑、若布を採っていることを記している。 2)日本の歴史書、事例(一例:「隠州視聴合記」以外のもの) ・ 江戸幕府は、竹嶋(=鬱陵島)を日本領土と認識していた。また実効支配していた。 (1)鳥取藩士、江石梁(岡島正義)、「竹島考」(1828) 「慶長(16世紀末~17世紀初)、鳥取藩米子の、村川市兵衛という者の一党が竹嶋(=鬱陵島)に渡る」 (2)大谷九右衛門、「竹嶋渡海由来記抜書控」 大谷家、元和4年(1618)から竹嶋(=鬱陵島)へ渡る。 (3)池田光政、元和3年(1617年)、因幡、伯耆(鳥取藩)へ移封。米子、大谷甚吉が、鳥取藩へ竹嶋 (=鬱陵島) への渡海を願い出る。 (4)元和4年(1618年)、江戸幕府、老中連署の渡海許可奉書を池田光政へ与え、池田光政は大谷、 村川両家に竹島 (=鬱陵島)への渡海を許可する。 (5)元和4年(1618年)、江戸の将軍、大谷甚吉にお目見えを許可、「空居の嶋、甚吉相顕し、日本の土地を 広む」と賞し、「御紋、御時服、御熨斗目」*を与えた。 *米子市立山陰歴史館に展示されている。 (6)寛永20年(1643)8月13日、朝鮮通信使、従事官 申濡(竹堂)の求めに応じ、応接役、林鵞峰、林讀耕斎、 「日本国記」(正徳年間の刊。当初、「本朝事跡考」と称す)を贈る。同書隠岐国の条に「隠岐の海上に竹嶋 (=鬱陵島)あり、竹多く、鮑多くして味甚だ美、海獣を葦鹿(あしか)という」とある。 (7)その他史料 ・「武鑑」に「大谷、村川両家の鳥取藩への献上品として鮑」の記載がある。 ・「和漢三才図会」伯耆国条は、鮑を産物5品の一つとしている。 ・「毛吹草」は、隠岐国名物として串鮑、海馬(あしか)を挙げている。 3)日韓漁民の衝突 ・日本側資料;「竹嶋渡海由来記抜書控」、「竹島考」での記録 (1)元禄5年(1692)3月、村川家 ・ 2月11日、出航し、3月26日、鬱陵島に到着。何者かが島で漁をしている様子を確認し、大坂浦(現在の 苧洞)で異国人を発見。日本語を話す一人に「ここは、日本の島」であることを伝え、今後、来ないことを 求めた。その回答は、「この島の北にある一島で鮑を獲っていたが、嵐で漂着した」であった。この説明に 対し、村川家漁民は、即刻退去することを求めた。 ・ しかし、退去せず、朝鮮漁民は、村川家の漁具、漁船を無断使用し、漁労を続けた。 ・ 村川家、武力衝突回避のため、証拠品を集め、藩に帰った。 (2)元禄6年(1693)4月、大谷家 ・ 4月17日、竹島(=鬱陵島)に到着。前年の村川家報告から、いきなり上陸せず、調査隊を出す。その結果、 相当量の鮑、若布が既に干されており、朝鮮漁民が既に来ていることを察知した。    ・ 漁師、黒兵衛、平兵衛の両名は、壮健のもの、5名を連れ、浜に行くと、朝鮮漁民、1名を発見。同人の案内で 大天狗まで漕ぎ進むと、10名ほどの朝鮮漁民が漁をしていた。その中に日本語を話す安龍福(自称、42歳、 実際は36歳)がいた。    ・ 鬱陵島は荒磯のため、そのまま脚舟(小型連絡舟)を停泊しておくことは、危険と判断した黒兵衛らは、 安龍福、朴於屯(33歳、蔚山出身)を本船に乗せ、鬱陵島へ渡った理由を質した。      ・安龍福、朴於屯の答えは、「官命により鮑の採取にきた」とのこと。 ・ 事態を重く受けとめ、前年、「再渡来致すまじき旨」(二度と来ないように)の警告にも関わらず、今年も 来たため、このままでは鬱陵島は、「略奪されるのは必定」と考え、急遽、鳥取藩の判断を仰ぐこととし、 帰藩。この時、安龍福、朴於屯両名を同行した。    ・韓国側史料;「辺例集要」への記載内容 (1)鬱陵島へ渡った理由 蔚山の金徳生ら6名、鬱陵島に漂着し、島に隠れていた。 (2)朴於屯、安龍福の日本行き 両名は、下船が遅れた。そこへ倭人8名が来て、刀剣、鳥銃で脅し、二人を連れ去った。 (3)大谷家漁師が鳥銃をもっていた理由 海驢(アシカ)猟のため、鳥取藩から借り受けた。 [両国資料の共通点]     朴於屯、安龍福両名の日本行き 4) 朴於屯、安龍福両名の航海 (1)鬱陵島出発:1693(元禄6)年4月18日/大谷家200石船で移動。 (2)隠岐島(福浦)到着:1693 (元禄6)年4月20日 (3)朴於屯、航海について証言 「隠岐島に着くまで、船倉でひどい船酔いに苦しんだ」 (4)出雲藩の対応 出雲藩は、両名の取調べ後、竹島(鬱陵島)を侵犯した生き証人として、「異客」(外国人のお客様)として 待遇。 (5)再出発:1693年(元禄6年)4月23日福浦を出発 (6)米子港帰着:1693年(元禄6年)4月26日(隠岐島の嶋前に立ち寄った後) 5.安龍福、朴於屯の実像 1)安龍福 安龍福の腰牌/「竹島考」への転記された。(江石梁は、転記に際し、「此の牌面の文字、恐らく 伝写の謬りあらん」と記している) (1)腰牌とは?:朝鮮の軍兵が所持するもの。 (2)表面の記述:・長四尺一寸面鉄髭暫生疵無(このように身体的特徴を記す)        ・東莱/私奴(賎民)、用卜、年三十三 (3)裏面の記述:庚午(=1690年/腰牌作成年)、釜山佐自川一里/第十四統三戸 (4)釜山佐自川一里とは:釜山僉使営(せんしえい)、水軍萬戸営等の軍事施設があった場所。 (5)朝鮮時代の文献:安龍福を「櫓軍」と記す。このことから安は、水軍萬戸営に所属。 (6)日本語を話す理由:水軍萬戸営近くに倭館があり、これと関係していたと推測。 (7)安龍福の初来日は、元禄6年(=癸酉=1693年) 。安龍福、36歳の時。ただし、鬱陵島で大谷家船頭、 黒兵衛に42歳と言った。虚言癖(嘘つき)は彼の性格。 (8)虚言癖の他の例 股引の紐に腰牌を結び付けている理由を質された時の安龍福の答え 「吾邦にてこの牌なき者は、世間の交わり相成り難し。之により銀四十目ずつの運上を出して之を受くる ことなり」=「人との交際ができない。税金を払って軍隊の認識票を、購入」は当時の朝鮮でも全くの嘘。 以後、次々と嘘が出てくる。 2)朴於屯の号牌 (1) 号牌とは:朝鮮王朝発行の身分証。朴於屯は、号牌を持っていた。 (2) 表面:蔚山/朴於屯/三十丑(=1661年生)/於血(の)子 (3) 裏面:庚午/青良島里第十二統五家 3) 安龍福の腰牌、朴於屯の号牌との違い (1) 所持する証明の違い(腰牌、号牌/16歳以上の良民は、携行を義務付けられた) (2) 安龍福は、私奴、用卜とのみで、姓が無い(賎民のため)。 6.鳥取藩の安龍福、朴於屯に対する処遇方法 ・ 藩の処遇(=外国からのお客様として対応)が、安龍福にとんでもない誤解を与えることになった。 ・ 資料:竹島考、池田家御櫓日記、他 1)大谷家、4月27日、二人を大谷家に留め、翌28日、鳥取藩米子城駐在、荒尾修理に「唐人」を連れ帰ったと報告した。 2)鳥取藩は、江戸幕府に事実関係を急報し、幕府の指示があるまでの間、二人を大谷家に預け、荒尾修理に 警備を命じた。 3)「池田家御櫓日記」5月11日の条に、「気晴らしに外出したい」と「色々わやく申候」(=騒ぎ立てる) 安龍福に対し、 荒尾修理は、 これを認めず、支給する酒も「昼夜に三升より上は無用」と申し伝えた。 4)鳥取藩への江戸幕府の指示 到着した指示は、「朝鮮人には、竹嶋(=鬱陵島)には渡海しないよう厳しく申し伝え、長崎へ護送せよ。」 5)鳥取藩は、5月26日、陸路で長崎へ移送することを決定し、二人を米子から鳥取城下へ移した。 6)5月29日、護衛に鹿野郷右衛門と尾関忠兵衛、永見治兵衛が付き、御医師の中村玄達が同行し、米子を出発、二人は、 6月1日午後4時、鳥取城下の荒尾大和宅に到着した。 7)鳥取藩の領民への注意 「猛悍強暴な者の由、兼ねて其聞えあり」と評された安龍福の移送のため、「婦女幼児の道路に在って見物すること」 を禁じ、鳥取城下でも「異客の内に暴悪の者」がいるという理由で、「見物」を触れで禁じた。 8)6月7日、鳥取を出発し、長崎に向かった。鳥取藩は、お客様として二人を扱ったため、駕籠に乗せ、山田兵左ヱ門、 平井甚右衛門、 御医師の竹間玄碩、御徒方5名、軽卒、御小人若干名、脚力、料理人等、総勢90余名が随行した。 9)途中、20日余りの間、二人は「所々でご馳走を仰せ付け」「膳部一汁七十八菜程宛」の待遇となった。 7.外交役、対馬藩の登場 1)対馬藩の対応 鳥取藩の異客の扱いに対し、対馬藩は犯罪者とした。これは、幕府の命*によるもの、「朝鮮漁民の越境を朝鮮側に 抗議する」ことになった対馬藩は、越境侵犯の質人 (証人)として扱った。 *1993年(元禄6年)5月13日付け老中土屋相模守の指示「二人を長崎で引き取り、朝鮮に送還し、朝鮮漁民の越境に ついて抗議せよ」 2)対馬藩は、6月初旬、二人を引き取るため仰接役の島雄藤右衛門を長崎へ派遣したが、二人がいなかったため、一旦、 対馬に戻った。(二人が長崎へ到着したのは、6月末)。 3)安龍福、朴於屯に対する取り調べ ・ 長崎奉行、川口攝津守立会いの下、対馬藩御留守居役、浜田源兵衛によって尋問が行われた。(通訳:大浦格兵衛、 加瀬藤五郎)    ・ 鳥取藩では、安龍福、朴於屯の名前がわからなかった(通訳がいなかった。二人は、漢字を書けなかったため、筆談も できなかった「両人終止筆硯を執らざる故、基本字を伝えず」(因府年表) [朝鮮語の発音を書き取った歴史書は、 アンヒチャン、アンピシャ、アンビシュン、アンヒンシャ等と記録している。ただし、ヒシャン、ピシャン、ビシュンは、 「裨将」で、朝鮮王朝の高官が地方巡業する際、同行する武官の官名。私奴の安龍福が唱えることができない官名。 安龍福は、官名詐称をしていた。]    ・ 7月1日、事情聴取は終わり、翌2日、対馬藩は、二人の証言を「朝鮮人口上書」として長崎奉行に提出された。 4)「朝鮮人口上書」の内容 ・釜山浦の安龍福、蔚山の朴於屯は、竹嶋(=鬱陵島)で「鮑、和布(わかめ)かせぎ」をするため、蔚山を3月11日に出帆し、 同25日、寧海に着いた。寧海で一人が下船し、3月27日、寧海を出発し、安龍福、朴於屯ら九人が鬱陵島へ向かい、 午後6時に着いた。 (以下、安龍福のことば) ・ 鬱陵島で鮑、和布採りしていると、4月17日、日本人がやってきて、われわれ二人を船に乗せ、鳥取に5月1日に 到着した。 ・ 竹嶋(鬱陵島)へ渡った理由は、常々、竹嶋に鮑、和布が大分あると聞いていたためで、今回、鮑獲りに来た島は、 朝鮮で「ムルグセム」(武陵島)と呼ぶ島である。日本がムルグセムを竹嶋と言っていることは、今回、初めて 知った。      [先の4-3]- (2) では官命と言っていた。今回は、鮑獲りと答え、前が嘘と分かった]      ・ 4月5日、全羅道順天から17人の漁民、慶尚道カトク(熊川郡加徳島か?)から15人の漁民が鬱陵島へ来た。 5)韓国の歴史教科書での記述 ・ 「安龍福の事件以後、日本の漁民たちはたびたび鬱陵島付近に不法に接近した」。これは、間違い。 ・ 日本は、鎖国政策を採っていたため、外洋に出るには、往来手形(パスポート)が必要であり、不法接近は、不可能で あった。 6)対馬藩の動き 幕府の命もあり、以上のような証言を得たため、朝鮮政府に抗議するため、使臣を送ることを倭館(釜山にある対馬藩の 公館)を通じ、朝鮮政府に伝えた。10月10日、朝鮮政府から使臣の入国許可が下りた。 第2章 舞台は朝鮮に -誤解の始まり 1.日本側の要求と朝鮮の廟議 1)対馬藩の抗議文 ・ 1693年(元禄6年)11月2日、対馬藩使臣、多田輿左衛門は、藩主、宗義倫(そう・よしつぐ)の文書を持参し、倭館に入った。 ・ 宗義倫の文書      貴域(朝鮮)の沿岸漁民たちは、近年、日本国の竹嶋(=鬱陵島)に至り、密かに漁採をしている。日本の漁民がここは 日本領なので再び渡海しないよう警告したが、今春、再び国禁(朝鮮政府の渡海禁止命令)を顧みず朝鮮の漁民40余人 が竹嶋にやってきて、漁採をした。そこで日本の漁民は二人を生き証人として鳥取へ連れ帰り、鳥取藩に訴え出た。      鳥取藩が事の顛末を江戸幕府に報告すると、幕府はわが藩に、漁民二人を本国に送還し、決して竹嶋で漁労活動を しないよう朝鮮側に 厳しく対応してもらえ、と命じた。そこでわが藩は幕命に従って、帰国に報知する。今その 二人を送還するのは両国の「交誼」による。貴国は速やかに各地に政令を発し、漁民たちの渡海を禁じるべきである。 2)朝鮮政府の調査結果(辺例集要の粛宗20年[1694]正月の条、に記録)    安龍福の証言は、次の通り。    「3月、租25石、銀子9両3銭等の物を載せ、魚を商うため蔚珍より三陟に向かう際、漂風によっていわゆる竹嶋に到泊した。    (安龍福は、初めは「官命による」、次は「鮑獲り」、朝鮮政府には「風に流されて、竹嶋へ着いた」と証言した。嘘ばかりである)    *朴於屯の「親、女房、子供」が蔚山郡庁に「(朴於屯が)漁のため鬱陵島へ参ったところ、日本の漁民に連れ去られた」と訴えて いる。このことからも安龍福の嘘は、明白。 3)粛宗への報告と朝鮮王朝の廟議 宗義倫の文書は、東莱府使、成璀から漢城へ伝えられ、11月14日、重臣から粛宗へ報告された。「備辺司謄録」粛宗19年 11月の条にある廟議の内容は、次の通り。 ・左議政、睦来善 「対馬藩の言うことは、もっともな事である。守令(地方官)たちから、漁民らはしばしば武陵島や他島を往来し、 竹を伐採したり、鮑を採っていると報告を得ている。日本側が(漁民の鬱陵島行きの)禁止を求めるなら、朝鮮側も 禁止しないわけにはいかない。」 ・右議政、閔黯 「漁民は、漁採を生業とする。一概に禁止するべきではない。多田輿左衛門を迎えに東莱府へ赴く接慰官の報告を 得た後、判断をすることが良い」 ・接慰官、洪重夏の発言(粛宗実録、11月18日の条に記録) 倭人(日本人)がいう竹嶋は、確かにわが国の鬱陵島だが、重大問題とはせず、そのまま放置しておけば、問題は 自然に解決する。 ・廟議の結論 接慰官、洪重夏の発言を得て、睦来善、閔黯ら重臣は、「鬱陵島は、300年無人とし、棄てた地であり、これによって 争いを生じ、好を失うことは、計でない」として、粛宗も重臣の意見に従った。 ・こうして廟議は、東莱府の報告を尊重したが、それは倭館にいる日本側通訳が、朝鮮側と意見調節し、今回の一件が 領土問題にならないよう努めた結果である。 4)訳官(通訳)の発言記録 (1) 倭館の訳官、朴再興 (日本の)御使者が朝鮮に来られ、これに問題がないようにしたい。何か両国で出入り(もめごと、けんかなど)が 起きないようにしたい。 (2) 東莱府の訳官、金判事 鬱陵島には、三つの島が在る。一つを鬱陵島とし、他の一つを竹島とすれば、朝鮮側も日本側の名目が立つ。 (3) 訳官の着想の根拠 太宗17年(1417) 以来、鬱陵島を空島とする政策があり、鬱陵島への渡海禁止をしていたため、法を厳格すれば、 越境はなく、日韓両国の漁民間の争いはなくなる。また朝鮮と対馬藩も領土争いをしないで済むという考えで あった。 5)朝鮮政府の対馬藩への復書と内容 ・ 朝鮮政府は、粛宗19年12月付け復書を朝鮮国禮曹参判、権堦名で送った。 ・ 「弊邦の海禁至って厳にして、外洋出ることを得ず。貴国の竹嶋、弊境の鬱陵島といえども遼遠の故を以って、 往来を許さず」「今ここに漁船敢えて貴界の竹嶋に入り、領送を煩わす」「今まさに犯人等を律によって罪を科す」 =朝鮮王朝は、漁民が外洋に出ることを厳しく禁止しており、それはわが鬱陵島の場合も同じで、往来を許していない 。今、朝鮮漁民が貴国の竹嶋に渡ったが、送り返された犯人らは、法律に従って罰するつもりである。 6)復書に対する対馬藩の反応 (1) 対馬藩使臣、多田輿左衛門 ・ 多田は、復書の受け取りを拒絶した。「弊境の鬱陵島」の文字があったことによる。多田の立場では、鬱陵島は、 日本領でなければならなかった。 ・ 多田は、復書の写しを部下(阿比留惣兵衛)に持たせ、藩に帰し、藩の結論を求めた。 (2) 対馬藩の結論 ・ 「弊境の鬱陵島」の文字は、消去することを求めるべきとした。 ・ 「竹島は、もと朝鮮の鬱陵島である。今一島を以って二名を立てている。決して幕府に申し上げることができない」 との理由による。 ・ 藩は、阿比留惣兵衛を再度、釜山に送り、藩の結論を伝えた。 (3) 対馬藩の結論に関する訳官、朴再興の見解と多田の行動 ・ 「鬱陵島は、朝鮮の領土である。しかし、朝鮮は、復書にその名を載せるだけでよいと考えたから、鬱陵島を書き、 竹島を日本の地とした。それなのに鬱陵島の名を削るとなれば、両国の争いになろう。」 ・ 以上の朴再興の見解によって多田は、復書を受けることを決心し、1694(元禄7)年2月22日、帰国した。 7)朝鮮政府内の変化 (1) 閔黯、睦来善の失脚と後任 ・ 1689年2月、粛宗の後宮問題から西人派が失脚し、南人派の閔黯、睦来善が政権を担当することになったが、 1694年4月1日、先の後宮問題の処理を後悔した粛宗が二人を解任した。 ・ 南人派に代わり小論派の、南九萬と尹趾完が政権を担当することになった。これによって従来の南人派外交方針が 急変した。 (2) 小論派の対応 ・ 小論派は、南人派の外交姿勢に批判的であった。このため張漢相を鬱陵島へ派遣し、実情把握する一方、兪集一に 安龍福らを再尋問させた(1994年8月)。 ・ 多田輿左衛門は、「弊境の鬱陵島」の文字の削除を交渉するため、釜山を再訪問した。として対応したが、文字の削除を 拒絶した。これは、安龍福に対する認識が南人派の認識と異なってことに一因がある。 (3) 安龍福に対する認識 ・南人派 安龍福、朴於屯を送還したことは、「隣交の誼、実に欣感するところ」と謝意を表し、二人に対し「まさに犯人等を して法律に依って罪を科す」という表明に見られるように二人を「国禁を犯し、越境した犯人」と見た。 ・小論派 ① 安龍福、朴於屯の二人は日本に拉致された被害者と見た。こうした変化は、朴於屯の家族が蔚山郡庁へ 「鬱陵島へ漁に入ったところ、日本人に捕まり、二人は日本へ連れ去られた」と訴えたことによる。 これにより慶尚道監営は、二人と一緒に漁に出た金徳生、金加乙洞、金自信、徐化立ら6名を取り調べた( 「辺例集要」、粛宗20=1694年8月の条)。この結果、小論派は、「鬱陵島は、朝鮮領であり、二つの島名を記す 問題解決策は、採らない」とし、安龍福らの処罰を約束した南人派の復書は、日本に迎合的として、その 外交姿勢を問題にした。 ② 鬱陵島問題は、対馬藩による謀略との認識をもった。これは安龍福の証言、「鳥取藩では非常に厚遇された。 しかし、長崎へ移った後、取り調べが厳しくなった」により、接慰官、兪集一は、「対馬藩が鬱陵島を竹島と呼び、 日本領土と主張することは、江戸幕府の歓心を買うため」と曲解した。(「集一、龍福に問うて、初めて其の実を 得た」/「粛宗実録」粛宗20[1694]年8月己酉[14日]の条)。こうして小論派は、安龍福の言葉により対馬藩 陰謀説に傾いた。 (4) 小論派の第二回復書(禮曹参判、李畭による)の内容 「東国輿地勝覧」を見ると、鬱陵島の樹木は陸地から「歴々望み見る」ことができるとあり、これまでも朝鮮ではその 時々に人を派遣し、鬱陵島を捜検してきた。それがこのたび、わが国の漁民が鬱陵島に往ったところ、犯越した貴国の 人がこれと遭ってわが国の人を「侵渉拘執(拘束)」し、江戸に「転到(転送)」した。(中略)。しかしながら、わが漁民が漁採 する地は、本より鬱陵島のことで、竹を産出することから竹島とも称しているが、鬱陵島と竹島は同じ島で二つの名が ある。(中略)。にもかかわらず対馬藩からの書信では、逆に竹島を日本領土とし、わが国の漁船の往来を禁止しようと している。日本の漁民が鬱陵島へ往来することを禁止し、問題が起きないようにしてもらえれば、幸いである。 8) 第二回復書をめぐる対馬藩の対応 (1) 対馬藩は、多田輿左衛門に復書を受け取り、さらに倭館に留まり、朝鮮側の状況を見守るように指示した。 (2) 藩主、宗義倫の死亡による対馬藩内部の意見の二分化 ①鬱陵島は、昔、朝鮮領であったが、事実上長く空島であり、日本が約80年間実効支配していた。したがって幕府の 命に従い、竹嶋(鬱陵島)は日本領として固守する立場 ②1481年の東国輿地勝覧の記事から、やはり鬱陵島は朝鮮領とすべきとの立場 (3) 対馬藩の交渉団、訪韓 ・ 藩内部では二分のまま、幕府の命を奉じ、1695年春、高勢八右衛門、陶山庄右衛門、阿比留惣兵衛を朝鮮に派遣した。 ・ 一方、状況を見守るため留まった多田輿左衛門は、粛宗21(1695)年5月15日、第二回復書について「疑問四か条」を 朝鮮政府に出し、1ケ月以内の回答を求めた。 ①鬱陵島へ定期的に官吏を派遣していると言うが、鳥取や出雲の漁民たちはここ81年来、朝鮮官吏に遭遇したことがない。 なぜか? ②「貴国(日本)の人、わが境を侵捗す」とあるが、これまでわが国の漁民が鬱陵島に出漁し、三度漂到した。それにも関わらず、 犯越侵捗として抗議がなかった。なぜか? ③第二回復書では、鬱陵島と竹島を一島二名としている。しかし第一回復書は、二島二名としている。なぜか? ④過去、朝鮮側から対馬藩に送られた文書の中で、鬱陵島に関連したものが3通ある。82年前に今回とは別件で対馬藩が 東莱府使に対し鬱陵島の ことを確認した際、東莱府からの書状には「本島即我国所謂鬱陵島」「他人の冒占を容れず」と あった。だが78年前、鬱陵島へ出漁した日本漁民が朝鮮に漂到した際には、領海侵犯の抗議はなかった。これは、「他人の 漁労を聞いて許した」のと同じである。82年前と78年前の文意が合致していない。なぜか? (4) 朝鮮政府の疑問四か条への回答と多田の反応 ・ 朝鮮政府から第1点にだけ回答があった。その他については、回答が無い。 ①新羅、高麗の時代、また朝鮮時代の太宗、世宗、成宗の三代に官吏が鬱陵島を探査した記録がある。 ・ これに対し、多田は、次のように主張した。 日本は80年間、鬱陵島で漁労に従事してきた。また82年前に書かれた朝鮮の「芝峰類説」に「近く倭奴の礒竹島を 占拠するを聞く」の語がある。他人が占拠していることを知っていながら許し、漁労をしている事実を知りながら、 許している。これは自ら棄て、他人の所有に帰したも同然である。それにも関わらず今回、突然「犯越侵捗」と するのは、事情を知らない者の言い分である。 ・ 小論派の強硬策は、交渉決裂の事態を招き、朝鮮側を窮地に追い込んだ。 (「粛宗実録」に南九萬を評した記録があり、そこでは「執迷回らず。終に堂々の国家をして、無限の罵辱を一差倭 (日本人、多田への蔑称)に受く」とあり、南九萬の交渉方針は、朝鮮内で問題視されたことが分かる) 2.江戸幕府の決断と密航事件 1)対馬藩の申し出      ・ 宗義倫の死により藩主が弟の宗義方[父、義真が摂政]に代わった。新藩主は、竹嶋(鬱陵島)が朝鮮領であるとして、朝鮮側との 交渉中断を幕府に申し出た。      「元禄八(1695)年10月、天竜院公(宗義真)東武に覲せらる(参勤交代に参った)。よりて執政、安部豊後守(阿部正武)に稟(稟議) するに竹嶋(鬱陵島)の一款、先太守(宗義倫)、使いをして論談せしむるもの今すでに三年なり。彼国固く竹島を以って其国の 地なりとして、終に我に聴く事なし。如何というを以ってせらる。」とし、幕命により朝鮮と鬱陵島の領地問題を三年間、交渉して きたが、朝鮮は一歩も譲らないことを報告し、今後どうするか幕府の判断を仰いだ。 2)幕府の結論 ・ 鳥取藩に対し、竹嶋(鬱陵島)への渡海を禁じた。「通航一覧」には次の内容がある。      “竹嶋は因幡(鳥取藩)に属しているが、わが国の人が定住しているわけでなく、将軍秀忠の代、米子の漁民が願ったため、 出漁を許しただけである。今、鬱陵島の領有問題を解決するため、幕府が軍事力をもって臨めば、できないことではない。 しかし、そうすると無用の小島を争って、隣国との友好を失うことになり、得策でない。鬱陵島を朝鮮から奪ったわけで ないから、返すというのは話が合わない。日本で鬱陵島への渡海を禁止すれば、済む話である。朝鮮と最後まで争うより、 事を荒立てず、お互いに対立しないことに越したことは無い。“     ・ 以上から幕府は、鳥取藩へ元禄9(1696)年1月28日付け文書で渡海禁止を命じた。 3)朝鮮政府への通知 ・ 幕府は、同時に対馬藩に対し「幕府の結論を朝鮮に通知する」ことを命じた。 ・ 対馬藩は、10月、新藩主を祝うため対馬に派遣された同知、卞延郁(同知は通訳官の官職)と宋裕養 判事に方針変更を伝えた。 ・ 1693年、安龍福、朴於屯を米子に連れ帰ってことから始まった鬱陵島の領有問題は、江戸幕府の渡海禁止で決着を見た。 3. 安龍福らの密航 1)密航事件の勃発 ・ 1693年6月4日、安龍福、僧雷憲、劉日夫、李仁成ら、11名が突然、鳥取藩の赤碕灘に現れた。 ・ 来日の理由について出雲藩代官に「伯耆国(鳥取藩)へ訴訟のため渡来」したと答えた。 ・ 船印は、「(表)朝鬱両島監税将臣安同知騎+(裏)朝鮮吁安同知乗船」であった。この官名は、朝鮮王朝に無い。安龍福は、 「鬱陵于山両島監税」という実在しない官職を僭称(詐称)した。しかし、船印は、「鬱陵于山両島を管轄する朝鮮官吏として 来日した」と言っている。 2)安龍福と于山島 ・ 「太宗実録」の太宗17年(1417)2月「于山島から島民を引き揚げることになった」とある。このときの于山島は、朝鮮で竹嶋とも 呼んでいる鬱陵島に隣接した小島である。 ・ 安龍福は、ここで言っている于山島は、日本の松島(現在の竹島)であった。彼は、松島を于山と誤解し、朝鮮領と言った ことになる。なぜこの誤解が出たのか? (→後述) ・ いずれにせよ、彼の誤解が現在の日韓の竹島(独島)問題につながっている。 3)鳥取藩の対応 ・ 異客(外国からの客人)で、朝鮮の官吏を名乗っていることから、安龍福らの真意が分からないまま、鳥取藩は儒者、辻晩庵を 派遣し、安同知(通訳の官職)、李進士(科挙合格者)、他一名と専念寺(青谷)に招き、筆談した。しかし、彼らは漢文が分からず、 そのため辻は、渡海目的を聞き出すことができなかった。    ・ 鳥取藩は、とりあえず「朝鮮官吏」の彼らを駕籠(安龍福、李仁成)、他の9人に馬を送り、鳥取城下に移送の上、失礼の無いよう 御吟味役、羽原伝五兵衛に接待をさせた。一方、江戸幕府に朝鮮人の渡来を報告し、処理方を伺った。 4)幕府の指示と鳥取藩の対応 ・幕府の指示内容 (1)朝鮮人は、船中に厳しく留め置くこと。 (2)対馬藩から家人、通訳を派遣すること。 (3)異客に「願いの筋(訴訟事項)があるならば、長崎へ回船し、長崎奉行へ訴えること」を通知すること。 (4)鳥取藩は、「異域(外国)のことを取り扱う所」でないことを朝鮮人に分からせること。つまり、幕府は、 「安龍福を長崎へ回漕するか、朝鮮にもどす」ことを指示した。 ・鳥取藩の選択 そこで鳥取藩は、本国へ直ちに戻すこと(追放)を選択し、対馬藩から通訳が到着する前に、追放した。 「因府年表」に「以後、加露灘にてこの船追い放しに相成」とある。 4.帰国後の安龍福の証言と朝鮮政府の廟議 1)江原道監司の報告(「粛宗実録」、粛宗22年8月壬子=29日)と朝鮮の反応 ・ 江原道監司、沈秤は、「安龍福らが船に乗って鬱陵島へ往き、日本国伯耆国に転入し、倭人と訴訟の後、 襄陽県界に還到した」と中央へ報告した。 ・ 朝鮮政府は、「倭人と訴訟」を重大視し、本件を備辺司に担当させることにし、安龍福ら11人を京獄 (ソウルの獄舎)に移送し、取調べを開始した。 2)安龍福は、なぜ現在の竹島(独島)を于山島と思ったのか? ・ 朝鮮の取り調べと現在の領有問題の元凶を知るため、安龍福の誤解の回路を先ず安龍福を含む朝鮮漁民の 今までの証言、調査記録に基づき、検証する必要がある。 (1) 安龍福はいつ于山島を知ったか? 1693年4月、「鮑と和布稼ぎ」に鬱陵島へ渡海した時。「竹嶋紀事」にある安龍福の証言。 「今回往った島(鬱陵島)から北東に大きな島がある。彼の地(鬱陵島)に滞在中、ようやく二度、その島を見た。 その島を知っている者が言うには、于山島と言うそうだ。終にその島に行くことは無かった。船で一日の 行程と思われる。」 (2) 安龍福の言う于山島の位置 ・于山島は、鬱陵島の北東と言っている。現在の竹島(独島)は、鬱陵島の東南にある。このことから、安龍福の 于山島は、現在の竹島(独島)では無い。 ・安龍福らが鮑、和布を採っていたところは、の東南部を基点に時計回りに回り、島の北部までである。この状況で 鬱陵島の北東に見える島が見える所は、現在の苧洞だけであり、苧洞から見える島は、竹嶼である。 ・竹嶼(竹島)は、「太宗実録」にある通り、于山島とも呼ばれていた(一島二名)。 (3) 安龍福はなぜ、こうした誤解をしたか? ・朝鮮資料「辺例集要」による:安龍福は、日本に連れて来られた際、鬱陵島を出航し「一夜を経た翌日の晩食後」、 黄昏(たそがれ)の海上に鬱陵島よりも「すこぶる大きな」島を目撃した。 ・鬱陵島を出航した日は、4月18日午後2時頃。したがって安龍福は、19日の夕食後、大きな島を見たことになる。    ・安龍福は、「鬱陵島にいる時、于山島まで船で一日の行程と思われる」と言っている。したがって、約一日を過ぎた 19日夕食後に見た島を于山島と思ったことになる。    ・20日、隠岐島に到着した。鬱陵島から隠岐島への航路は、東南東である。この航路上で「鬱陵島より大きな島」は、 隠岐島以外に無い。    ・以上から安龍福は、隠岐島を朝鮮が言う于山島、日本が言う竹嶼(竹島)と誤解したことになる。 [現在、日韓で問題となっている竹島(独島)は、鬱陵島よりずっと小さい。また、同行した朴於屯は、鬱陵島「前後、 さらに他島無し」と証言している。こうしたことからも、安龍福が隠岐島を于山島と誤解したことが強く推測 できる] 3)備辺司の取り調べに対する安龍福の証言 ・取調べに対し、安龍福は「鳥取藩主が鬱陵島と于山島は朝鮮領であると認めた」と嘘の証言した。しかし、これが現在の 韓国政府の「竹島は、韓国領」とする発端になった。 ・「粛宗実録」の粛宗22 (1696) 年9月戌寅(25日)の記録 (1) われわれが鬱陵島に到着すると、倭船が多くあった。そこで私が「鬱陵島は朝鮮領だ。なぜ倭人はわが領土を侵犯 するのか。全員を縛ってしまうぞ」と大喝した。すると倭人は、「われわれはもともと松島に住んでいる。たまたか 漁採に来たが、今帰るところだ」と答えた。 (2) そこで私は「松島は于山島だ。これも朝鮮の地だ。どうして住むことができるのか」と言ってやった。 (3) その翌暁、船を引いて于山島に入ると、倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮ている最中だった。 そこで私が杖で釜を叩き壊し、大声で叱ったところ、倭人は荷物をまとめ、帆を挙げて逃げて行った。そこで追い かけたのだが、途中、狂風に遭い、隠岐島に漂着した。 (4) 隠岐島では島主がなぜ来たか、目的をたずねた。そこで先にこの地に来た時、鬱陵島、于山等の島を朝鮮側の境界と する関白(将軍)の書付があったはずだが、それが徹底していない。 (5) 今また、わが朝鮮の境界を侵すものがいる。これを質すため、鳥取藩に取り次ぐように求めたが、返答が無かった。 (6) そこで私たちは、直ちに鳥取藩に向かい、「鬱陵于山両島監税」と仮称し、人を通じて鳥取藩に告げた。すると鳥取藩 では人馬を送って、迎えてくれた。 (7) 私は、駕籠に乗り、他の者は馬に乗って鳥取藩まで行った。 (8) 鳥取藩では藩主と対座し、諸人は中階に控えていた。鳥取藩主が「なぜ日本へ参ったのか」聞いたので、「先に両島の ことに関しては、書付を出したことは明白ではないか。それなのにその書付を対馬藩主が奪い取り、朝鮮政府と 江戸幕府の間にあった偽りの使臣を送ってよこすことは、言語道断である。私は、関白(将軍)に上訴し、対馬藩の 罪状を明白にしたい」と答えた。 (9) 鳥取藩主が上訴文を許すと言ったので、私は李仁成に書かせた。 (10) この後、対馬藩主の父親がやって来て鳥取藩主と話し合った。そして「もしこの上訴文が幕府に渡れば、わが子は重い 罪で死ぬことになる。どうか幕府に提出しないで欲しい」と言った。それで幕府への上申は、しなかった。 (11) 代わりに先日、鬱陵島へ渡った15人は、捕らえられ処刑された。 (12) 鳥取藩主は、私に次のことを言った。「鬱陵島と于山島は、既に朝鮮領となったのだから、再び越境する者がいたり、 対馬藩が無理な要求をすれば、国書を作成し、訳官を送ってよこせば重く罰してやろう」 (13) 鳥取藩主は、われわれの帰国に際し食料と護衛をつけると言ってくれたが、差障りがあるので、断った。 4)安龍福の証言を検証する (1) 真実の部分 ・(6)項、「鬱陵于山両島監税」を僭称し、鳥取藩の混乱させたこと。 ・(7)項、駕籠で鳥取藩(城下)へ移動したこと。ただし、李仁成も駕籠で移動した。したがって、一部は虚偽、 あるいは不正確といえる。 (2) 虚偽の部分 ・(1)項、鬱陵島で倭人が漁労していたこと。 (根拠:安龍福の鳥取藩への来航の4ケ月前、=1696年1月28日、幕府は、外洋への渡航を禁止し、さらにこの ことを朝鮮政府に通知するよう指示を出していた。鳥取藩は、往来手形=当時のpassportを発行できず、 漁民は遠洋へ出漁できなかった。 ) ・(1)項、倭船を多く見たこと。 (根拠:渡航禁止であった上、禁止前も鳥取藩の往来手形は、「船一艘、漁師21名以下」を条件としており、 多く船を見ることは無い。) ・(1)項、倭人が松島(=)の住人であること。 (根拠:安龍福は、この時、松島を現在の竹島、独島と考えた。しかし、竹島、独島は、男、女両島を合わせ、面積、 0.23km2の島で、飲料水の確保も困難。本国から食料、飲料水の供給が無ければ、とても定住することが できる ような島ではない。このことからも、安龍福は、竹島、独島がどのような島か知らず、于山島=(この場合)竹島、 独島を朝鮮領と思い込んだことが分かる。)        ・(3)項、船を引いて于山島に入ったこと。倭人たちは釜を列ねて魚膏を煮ている最中だったこと。        (根拠:①日朝間の領土問題の端緒となった島は、大谷家、村川家がアシカから膏を採取した島は、鬱陵島であり、 これが日朝間の 領土問題の端緒となった。②于山島には 釜を並べ、魚膏を煮る場所は、無い(岩礁だらけの島)。 またその燃料の薪も取れない。③船を引いて進むことができる浜も無い=着船、困難。そんな島だから、1996年2月、 韓国は東島に接岸設備の建設を進めた。) ・鳥取藩では藩主と対座したこと。 (根拠:鳥取藩主、池田綱清は、当時、参勤交代で江戸にいた。対座など、不可能。) ・(10)項、対馬藩主の父親がやって来て、藩主の命乞いをしたこと。 (根拠:①安龍福が言う対馬藩主は、宗義倫だが、前々年の1694年9月27日、死亡している。②対馬藩主の父親= 宗義真は、新藩主、宗義方の摂政[後見役]として、参勤交代のため江戸にいた③対馬から鳥取へ、短時間に移動 することは、物理的に不可能。) (3) 結論 以上、検証した通り、安龍福の証言は、核心部分=現在まで影響を及ぼしている事項=は、全て偽証である。しかし、 現在の韓国の歴史教科書では、供述調書の全てを歴史の事実としている。 5) 安龍福の証言をめぐる朝鮮王朝の廟議 ・備辺司は、安龍福、李仁成、僧雷憲、劉日夫ら一行11人の証言を供述調書にまとめた。[1696 (粛宗22) 年9月戌寅(25日)] (1) 1696年9月30日の廟議 ・当初、廟議では安龍福の証言に懐疑的であった。安龍福が国際的訴訟問題を起こしたことに関し、善後策を協議した。 列席者の発言は、以下の通り(「漂人領来謄録」、「粛宗実録」、他) ① 領議政、柳尚運 ・安龍福は、「法禁を畏れず、他国に事を生ずる乱民である」       ・鳥取藩は、訴訟事件を起こした者を対馬藩に送らず、直ちにその場から送り出した。したがって、事実関係を 究明する必要がある。安龍福の陳述した鳥取藩での行動も、全てを信ずることができない。今、対馬に渡って いる訳官*の帰国を待って、日本側の実情を把握の上、処断するのが良い。     *同知、卞延郁と判事、宋裕養 ② 兵曹判書、閔鎮長 ・強風で漂着したと言っているが、安龍福は最初から鳥取藩へ行くつもりであったろう。もし強風で漂着した のであれば、対馬から帰還することが、昔からの例である(対馬藩が対朝鮮外交の窓口)。その上、鳥取藩では 訴訟まで起こしたから、その罪は許し難い。この事実を対馬藩に通知しなければ、朝鮮としては誠信の道を 保つことができない。       ③ 金鎮亀 「古より交隣のこと、初め微細に似て、末或いは大に至る」。昔から、隣接する国との事は、最初、小さな事と 見えるが、最後は大問題になる可能性がある、として、慎重に事を運ぶように進言した。       ④ 粛宗 ・重臣たちの発言を聴き、粛宗も同様の見解を示した。 ・今回の首謀者は、安龍福である。突風による越境であったとしても、安龍福の罪を許すことができない。 今回のような場合、対馬藩から送還するのが通例で、鳥取藩からの直接の帰還は前例がない。さらに 安龍福は鳥取藩に上訴し、鬱陵島の領有権問題は対馬藩主が画策してものとして、対馬藩を誹謗中傷して いる。後日、対馬藩ではきっとこの事実を知るだろう。対馬藩には事実を伝えておかなければならない。 今回のことは、現在、対馬藩に渡っている訳官の帰国を待って、処置すべきである。 ⑤ 李仁成、僧雷憲(李仁成の5親等の叔父)、他8人の処分 「ただ龍福の教誘の言を聞き、海採をなした」という理由で無罪放免となった。 (2) 1696年10月13日の廟議 ・9月30日の廟議に参列しなかった領中枢府事、南九萬と領敦寧府事、尹趾完が廟議に加わった。ここで尹趾完が 安龍福の件で諸大臣の意見を求めた。 ① 尹趾完の発言 「龍福が個人的に他国へ行き、みだりに国事を説いたことは、日本側は、わが朝鮮が使臣を送ったと 思い込めば重大問題で、その罪科を言えば死に当たる。しかし、一方で対馬藩がわが国を欺瞞してきたのは、 わが国が直接江戸幕府と通じていないためである。もし今、鳥取藩という別の外交ルートがあることを知れば、 対馬藩は、畏怖するに違いない。龍福を誅殺すれば、対馬藩は鳥取藩ルートが塞がれ、喜ぶことになる。龍福の 処罰は、法の観点から正しいが、国家的計略の面では誤りである。」 ・尹趾完は、江戸幕府の命により交渉してきた鬱陵島問題が対馬藩の陰謀説を採っている。また安龍福の証言を ほぼ、事実と見ていることが分かる。 ② 南九萬の発言 「先に龍福が倭に連れ去られた際、江戸幕府が鬱陵島を朝鮮領とした書類を出し、それを対馬藩が奪ったという 証言を信じなかった。しかし今、龍福が再び鳥取藩に行き、訴訟をしたことは、先の証言が事実であったからで ある。対馬が江戸幕府の命に仮託し、鬱陵島を竹島と偽り、鬱陵島への朝鮮人の渡海を禁じようと中間で画策 していた実態が、龍福の証言で露見した。これは、快事である。」 ・南九萬は、先に外交交渉において対馬藩使、多田輿左衛門にやり込められ、朝鮮政府を窮地に追い込んだ。結果、 「粛宗実録」編纂史家から、「終に堂々の国家(朝鮮)をして、無限の罵辱を一差倭に受ける」と、その不手際を非難 された。また南九萬は、粛宗に「外交交渉を成功させなかったことは、全て自分の罪」と謝罪した。今回、安龍福の 証言を奇禍として、自己の失政を弁明した。 5.朝鮮政府内の政治的変化 ・江戸幕府の渡海禁止令、1696(元禄9=粛宗22)年1月28日 ・朝鮮官吏(訳官)、対馬より帰国し、江戸幕府の渡海禁止令を報告、同年5月 ・以上の4ケ月間に朝鮮政府内の政治的変化が起こった。 1)情実派の台頭   10月13日の廟議における南九萬、尹趾完の発言以降、法を情実で解釈する一派が台頭した。 2)遵法派の存在 尹趾善のように法に則って安龍福の処刑を主張する遵法派も存在した。他に承旨、もそうである。 ・10月23日の廟議での兪集一の発言(10月13日、欠席) 粛宗の下問に対し「安龍福の証言は、極めて疑わしい」と応えた。兪集一は、’94年8月、接慰官として対馬藩と直接外交交渉した 経験*、およびその時、安龍福を直接尋問した内容と今回の証言を比較考察した結果、証言を虚偽と判断した。 *対馬藩が強く日本領と主張した鬱陵島を鳥取藩が簡単に朝鮮領と認めたことは不自然。 *外交交渉中、「鬱陵島を朝鮮領とする」文書を一度も見なかった。 6.事実とされた「対馬藩の陰謀」 1) 同知、卞延郁と判事、宋裕養、対馬藩主の父、宗義真と面談 1696年10月16日、二人は宗義真と面談し、江戸幕府の鬱陵島への渡海禁止措置を知った。 「実に是、両国の誠信、いよいよ篤し」と言い、両国の誠信は、これによってもっと深く、固いものになると素直に喜んだ。 この時、安龍福の密航事件も知り、駭然(愕然)とした。 2) 朝鮮政府の対馬藩への悪感情    多田輿左衛門ら対馬藩の使臣は、幕府の命を受け、外交交渉に臨んだ。公儀の命を奉じ、使命を遂行しようとする忠義心が 強かった。そのため彼らの外交姿勢は、頑なとも見られ、朝鮮側の印象を悪化*させた。(*「粛宗実録」での対馬藩の呼称が、 対馬藩から、「狡倭」、「対馬倭」と蔑称に変化している。) 3) 訳官の復命、中央政府への報告 ・1997年正月、卞延郁と宋裕養、両名が帰国し、東莱府に復命した。 ・東莱府使、李世戴は、報告を得て、中央政府に以下を報告した。 「前藩主、宗義倫は、鬱陵島問題で二度、江戸幕府の命によって朝鮮側に使臣を送ったが、新藩主の父、宗義真は、 参勤交代の折、江戸で将軍に拝謁し「竹嶋(鬱陵島)は、朝鮮に近く、領土問題として争うべきでない」と具申した。 その結果、江戸幕府は、鬱陵島への倭人の往来を禁じた。この幕府の決定には対馬藩の周旋が功を奏した。」 ・李世戴は、本報告と同時に「対馬藩に書簡を送り、周旋に対し謝意を表してはどうか」との具申をした。 4) 中央政府の対応 ・1697年2月14日、備辺司の粛宗への奏上内容 「鬱陵島が朝鮮領であることを知っているにも関わらず、対馬藩は二度も使臣を送り、その上、復書の文字まで 改めるよう要求した。ところが今回、江戸幕府の渡航禁止措置を新藩主の父の功績としている。これは明らかに自らの 非を認めたものである。「漂風の愚民」(安龍福)が日本で問題を起こしたことは、わが政府とは何ら関係が無い。」当然、 謝意の文は、出なかった。 5) 安龍福に功績が行く 3)項のように対馬藩への悪感情の積層、小論派による恣意的な法解釈と対馬藩陰謀説によって歴史的時間系列、 事実は無視された。安龍福の密航事件に先立って江戸幕府は、鬱陵島への渡航禁止を命じた。しかし、大勢は、安龍福の 虚構である「鳥取藩主への直訴」が、幕府の禁止措置を引き出したとし、鬱陵島が朝鮮領と確定したことは、安龍福の功となった。 6) 安龍福の処罰 ・1697年3月29日、廟議で安龍福の処罰について協議した。遵法派は、国禁を犯し、密航した安龍福に対し厳罰を主張した。 ・情実派の南九萬、尹趾完は、「軽軽しく殺すべきではない」とした。 ・粛宗は、「本来、死刑にするべきであるが、罪一等を減じ、流刑」とした。この裁断に司憲府は、違憲を唱え、何回か粛宗を諌めたが、 遂に裁断は変わらなかった。    こうして、安龍福は、後の歴史で、鬱陵島の帰属問題を解決した英雄となった。一方、現在の竹島(独島)問題を残した。 第3章 その後の経過 -二つの異なる歴史認識 1.安龍福、英雄となる 1) 日朝間における歴史に対する考え方、記録への姿勢の相違 ・この事は、両国の歴史書の見ると、歴然とする。 (1)日本「竹嶋紀事」 ・1726年(享保11年)、対馬藩は越克明に鬱陵島事件について「竹嶋紀事」の編纂を命じた。 ・越は、関連する文献を時間の経過に従って配列するやり方で、国書、書簡等の史料を忠実に記録し、問題の一部始終を 史実に沿って、記録する方法を採った。 (2)朝鮮「粛宗実録」        ・1728年(英祖4年)刊行。粛宗時代の事績全般を記録した編年体歴史書。 ・「粛宗実録」では政治的な思惑で史料が取捨選択されている。すなわち時の政権の政治姿勢が反映されている。 朝鮮の歴史書では史実より、過去の行為、発言に関する評価が重要になっている。 ・西人派が1683年、小論派と老論派に分裂し、1719年以降、浮上してきた老論派と小論派の対立が続いた。そうした対立、 政権交代によって歴史認識も二転三転した。「粛宗実録」全65巻は、老論派の手によるが、各巻末に小論派が編纂した 「粛宗実録補闕正誤」が付けられた。「粛宗実録」の編纂作業中、政権が老論派から小論派に代わった結果である。このように 政権によって歴史認識が変わる。 ・以上に加え、朝鮮の歴史書では「論賛」、すなわち歴史書編纂の際、史官が歴史的人物や出来事に付いて「自己の見識で論評、 評価」する。こうして史官の歴史認識が付属する。 ・朝鮮の歴史書は、史料より先ず歴史認識が優先される。朝鮮にはこうした風土が続く。 (3)朝鮮「鬱陵島争界」(「春官志」に収録) ・これは、英祖の命を受け、李孟休が禮曹(外交、儀礼担当部)の記録を整理し、1745(英祖21)年孟秋(7月)、編纂した。 李孟休は、本書の中で「倭、今に至るまで、再び鬱陵島を指して日本の地となさず。皆、龍福の功なり」と記し、安龍福を評価 している。 ・李孟休は、南人派が安龍福は国禁を犯した重罪人と厳罰に処すべきとした見解、彼の処分をめぐり「情実派」と「遵法派」で 意見を異にしたこと、江戸幕府の鬱陵島渡海禁止措置が対馬藩の進言が奏効したとする訳官の報告等の史料を一切、採録 していない。ただ「此れまた日本の意にあらず。ただ馬島倭、詐を聘す(めす)」と、対馬陰謀説の部分のみ記し、その陰謀を 安龍福が暴いたと評価している。こうして李孟休は、自分の認識に合わない史料を棄て去った。 ・李孟休は、「対馬陰謀説」と「それを暴いた安龍福の功」という歴史認識により、史料を取捨選択したのだが、これは孟休の父、 李瀷が著した「鬱陵島」(「星湖賽説」に収録)の記述を前提に禮書の文献を解釈した結果である。李瀷は、安龍福を「英雄の 同類」と評し、「国家のために強敵に抗し、奸萌を折り、累世の争いを息めて(休めて)一州の土を復す」、すなわち朝鮮のために 強敵、日本に対抗し、奸計の芽を摘み、代々の領土争いを鎮め、朝鮮の領土を取り戻したと高く評価している。安龍福の証言を 全て信用している。 (4)「東国文献備考」(1770=英祖46年) 「鬱陵島争界」の記事は、「東国文献備考」で引用され、安龍福の功績は、増幅された。こうして安龍福は、英雄になっていく。 2.「東国文献備考」を考察する(「ある朝鮮史書の改ざん」) 1)「東国文献備考」の一篇、「與地考」にある鬱陵島に関する分註    「與地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山はすなわち倭の所謂松島なり。」    ・韓国マスコミが竹島問題を報道する際、この分註を根拠に、竹島は歴史的にも、国際法的にも韓国固有の領土であることは、 明々白々と主張する。 2)于山島の記載がある歴史書の一例、および韓国領とする条件 (1) 世宗実録地理志、1454年 (2) 東国與地勝覧、1481年 ・「この2書は、日本の『隠州視聴合記』(1667年序)より古い。したがって、竹島の歴史的権原は韓国にある」が 上の1)の 主張の筋道である。 ・この主張は、①于山島が鬱陵島の属島である かつ②于山島が日本のいう松島(現在の竹島=独島)と同じ島であること、 換言すれば上記「與地考」の分註が正しくなければ、成立しない。成立条件が異なれば、結果も違うものになる。    3) 「三国史記」の記事(金富軾、1145年/高麗仁宗)      ・「三国史記」に「地、方一百里」の記事がある。すなわち「于山国(鬱陵島)は、その土地が約40km四方」とあるが、ここには 「鬱陵島に属島がある」という記載は無い。つまり現在の竹島について記述が無い。なお「地、方一百里」は、古来、境域を表す 常套句で、数字そのものには正確な意味は無い。しかし、鬱陵島と現在の竹島は、92km、離れており、「三国史記」の記述は、 ①属島に言及していない、②離れすぎる距離の2点から、現在の竹島が于山国に含まれていないと解釈するのが、素直。 ・参項:512年、于山国(鬱陵島)は、新羅に編入された。 4) いつ于山を日本の松島(現在の竹島)とする説が出たか? 1696(元禄9)年6月、鳥取藩に密航した安龍福が帰国後、初めて「松島は即ち于山島、此れ亦わが国の地」と出現した。 5) 「與地考」の分註は、どのように生まれたのか? (1) 「東国文献備考」の編纂 「與地考」を含む「東国文献備考」は、1770(英祖46)年1月から閏5月にかけ、申景濬らによって編纂された。 (2) 「東国文献備考」の編纂過程と「與地考」での引用 「與地考」で引用された「與地志」(「與地志に云う、~」)は、1656年、柳馨遠が編述した。本史料に「鬱陵、于山、皆于山国で ある。于山は、すなわち倭のいわゆる松島である」と記述があれば、安龍福の証言以前から朝鮮は、松島(独島)を自国領と 認識していたことが証明される。ただし、この証明をするには、問題点が2点、ある。 ①柳馨遠の「與地志」が現存せず、「與地考」で引用された記述がどのようなものか確認できない。 ②「東国文献備考」は、5ケ月間で編纂されたもので、「與地志」から正確に引用されたかどうか、非常に疑わしい。        ・「英祖実録」の記録:「東国文献備考」は、英祖が「速成を督」(うなが)したため、「記載するところ疎略」と編纂当初 からずさんさが問題になっていて、「訛(あやまり)を以って訛を伝え、今に徴すべからず」と評価されるような、 質の悪い歴史書であった。 (3) 孫引きだった「與地考」の注記 このように「東国文献備考」は、あらゆる史料、文献を徹底的に精査し、事実を究明した結果、できたものではない。 さらに「與地考」の分註は、「與地志」から直接引用したのではなく、孫引きであり、「與地志」と「東国文献備考」の 「與地考」の間に「彊界考」が入っていた。 (4) 「與地考」の底本(基礎資料)、「彊界考」と記述の食い違い 英祖46(1770)年閏5月16日の条に「與地考」は、その編者である申景濬の「彊界考」を底本に使用したとある。 「彊界考」の按記(=分註)は、柳馨遠の「與地志」から引用し、鬱陵島に触れている。しかし、「東国文献備考」と 「彊界考」は、同じ著者(申景濬)によるものだが、鬱陵島について、記述が違っている。 ①「彊界考」の按記   按ずるに、「與地志に云う、一説に于山鬱陵本一島」。而るに諸図志を考えるに二島なり。   一つは即ち其の所謂松島にして、蓋し(けだし)二島とも于山国なり。 ②「與地考」の分註   「與地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山はすなわち倭の所謂松島なり。」 (5) 「彊界考」の按記を考察する ・引用の元になった與地志は、現存しないが、以上の各史料を時系列的に並べ、考察すると、與地志には「一説に 于山鬱陵本一島」の記述だけと考えられる。「彊界考」の「而るに諸図志を考えるに二島なり。云々」は、申景濬の私見、 「私は、~と考える」である。つまり、 ・與地志は、于山島と鬱陵島は同じ島で呼び方が二つあることを言っているが、松島(現在の竹島)には言及していない。 申景濬は、私見を付け、與地志(柳馨遠)の記述に反対の立場をとった。 (6) 「與地考」の分註が変わった理由 ・柳馨遠の同島異名説は、「彊界考」では、そのまま引用され、続いて申景濬の「而るに~」という私見が付けられたが、 「與地考」の分註は、「于山はすなわち倭の所謂松島なり。」と断定的になっている。この変化の理由は、別人が潤色した ためである。 ・「承政院日記」の英祖46(1770)年閏5月2日の条によると、「東国文献備考」の上箋文を書いた金致仁は、其の編纂過程に 付いて「(申)景濬草創して、(洪)啓禧、潤色す」とある。申景濬の原案を洪啓禧が脚色したことが分かる。こうして 歴史が改ざんされた。 (7) 以上の整理 ① 1656年、柳馨遠による「與地志」編纂。「一説に于山鬱陵本一島」 ② 1696年6月、安龍福、帰国後。「松島は即ち于山島、此れ亦わが国の地」 ③ 1745(英祖21)年孟秋(7月)、李孟休が「春官志」 (「鬱陵島争界」を含む)編纂した。李孟休は、本書の中で「倭、今に 至るまで、再び鬱陵島を指して日本の地となさず。皆、龍福の功なり」と安龍福を評価。安龍福像が確立。 ④ 1750年代、申景濬、「彊界考」を著す。「與地志に云う、一説に于山鬱陵本一島。而るに諸図志を考えるに二島なり。 一つは即ち其の所謂松島にして、蓋し(けだし)二島とも于山国なり。」 ⑤ 1770(英祖46)年閏5月、「彊界考」を底本に申景濬らによって「東国文献備考」(「與地考」を含む)編纂。洪啓禧が潤色し、 「與地志に云う鬱陵、于山、皆于山国の地。于山はすなわち倭の所謂松島なり」とした。      (8) 申景濬が于山島を松島(竹島)と憶測した理由、申景濬に関わる問題点 ① 申景濬が「彊界考」を書いた1750年代には英雄としての安龍福像が確立していた。 ② 申景濬は、「彊界考」で鬱陵島関連を記すとき、安龍福の事績を参項にした。     [記事に「安龍福事」という一項があることで、参考にしたことが分かる。] ③ 申景濬の「安龍福事」は、李孟休による「鬱陵島争界」(「春官志」に収録)の記述と文書がほぼ同じ。 「安龍福伝、李孟休の著すところの春官志に載す」(成海応、「研経斎全集」)とあるように、当時、春官志が巷間に流布 していた。申景濬は、安龍福の功績を評価した春官志を盗用した。 ④ 申景濬は、「彊界考」で鬱陵島関連の記事に「鬱陵島争界」も盗用した。両方は、数句を除き、同文である。 違っているところは、改ざんされた分註部分だけである。 ⑤ 申景濬に対する同時代の評価 ・鄭東愈:「独善、傅会(こじつけ)の説を成し、往々我より古をなす。これ其の短(所)なり」(「昼永篇」)。申景濬には 改ざんや剽窃(盗用)の癖があった。 ・黄胤錫:「近日、文献備考の役、申景濬、すなわち鄭、安二家の私藁(個人の原稿)を取りて之を用ゆる。しかして 功を安に帰せず」。申景濬は、他人の業績も盗んだ。 * こうした悪評がある申景濬が編纂した「東国文献備考」は、当然、「記載するところ疎略」と評される ようなずさんなものになった。 *「東国文献備考」は、正祖時代(1776~1800)、大韓帝国時代に改定されたが、歴史の真実を追究することが 無かった。 *申景濬らが改ざんした「東国文献備考」の分註は、後代の官撰の「萬機要覧」、「増補文献備考」等に無批判で 引用され、朝鮮社会に「于山は、日本の松島である」との見解が常識化していった。 3.鬱陵島問題の再発 1) 背景 ・1876年、日朝修交条規が締結され、仁川、釜山、元山の3港が開港。 ・1883年、日朝通商章程が調印され、海関税目規則、日本人漁民取扱規則、間行里程取極約書、日本人民間貿易規則がそれぞれ 締結された。こうして日本人の朝鮮半島との往還が容易になり、日本人商人が渡海し、日本漁民の朝鮮近海での漁業も活発に なった。 ・鬱陵島に移住し、商業、漁業に従事する日本人が出た。 2) 再発した鬱陵島をめぐる問題と調査決定 (1) 1881(高宗18)年5月22日、江原道監司、林翰珠は、鬱陵島を巡察していた捜討官から「(日本の)船の去来、輓近 (ばんきん=近ごろ)常なし」との通報を得て、無断で木材を伐採する日本人を確認した上、中央政府に報告した。 (2) 統理機務衙門(外交機関)は、高宗から鬱陵島踏査の裁下を得て、副護軍、李奎遠を鬱陵島検察司に任命し、日本政府 (明治政府)に日本人の越境に対する抗議をした。その根拠は、江戸幕府の鬱陵島渡海禁止措置であった。 (3) 1882年9月、抗議を得た日本政府は、鬱陵島への渡海を禁じ、9月、同島から日本人、254名を連れ戻した。 3) 高宗の李奎遠に対する指示 高宗は、1882年4月10日、次の3点を指示した。 (1) 鬱陵島から、その傍らにあるといわれる松竹島と于山島までの距離*を明らかにすること。(松竹島は 「高宗実録」に記載された鬱陵島近くの島名) *高宗が特に関心を示したこれらの島は、当時、どのような島で、どこにあるのか、不明であった。李奎遠も 「これまで鬱陵島を捜検した人々も現地には行かず」、「梗概を伝聞」して、それを復命するのみと述べている。 高宗も「『東国與地勝覧』では于山島、鬱陵島の二島の名を挙げているが、『東国文献備考』では松島、竹島、 于山島の三島を全て鬱陵島としているように読める。これまでの鬱陵島の調査は、不十分だった。」ため、詳細報告を 命じたもの。 (2) 鬱陵島で採れる産物を報告すること。 (3) 将来、鬱陵島に村落を設置することができるか、判断すること。 *以上、報告書に地図を添えて、復命すること。 4) 鬱陵島検察司、李奎遠の動き (1) 1882(高宗19)年4月29日、江原道平海郡丘山浦を出航、翌30日の夕刻6時、島の西側の小黄土邱尾(現在の玄圃)に到着した。 (2) 李奎遠は、5月1日~11日まで「足跡の到らざる所なし」と記すように精力的に島の内部、周辺の属島を踏査した。 (3) 5月9日、「竹島」と「島頂」を調査した。 (4) 李奎遠は、10日、道方庁(現在の道洞)を経て、鬱陵島の沖合いを西に進み、小黄土邱尾に到る。 (5) 1882(高宗19)年6月4日、李奎遠は、「鬱陵島内図」、鬱陵島とその属島を写した「鬱陵島外図」(Seoul大学校奎章閣に 所蔵)の二種の地図を添付し、報告書を提出した。この外図に鬱陵島近傍に「竹島」と「島頂」の記載がある。 「全島の形勝(地形、風景など優れていること)、歴然として目に在り」と報告した。    5) 「鬱陵島開拓令」の発令      報告を得て高宗は、同12月、「鬱陵島開拓令」を発令した。 4.朝鮮政府の地理の認識   ・調査完了後、朝鮮政府は、鬱陵島一帯の地理をどのように認識したか?   ・以下で考察するように、朝鮮政府は、19世紀~20世紀初めまで竹島(独島)を領土として認識していなかった。 1) 松竹島と于山島    ・「鬱陵島検察司日記」にある李奎遠の報告は、「松竹、于山等の島、僑寓(仮住まい)の諸人、皆傍近の小島を以って之に当てる」で ある。ところが「鬱陵島外図」には、松竹島と于山島は記載が無く、島とされたのは「竹島」と「島頂」の二島で、他は「巌」(いわお) =岩礁であった。つまり松竹島と于山島は、「竹島」と「島頂」のどちらかであることを示している。    ・李奎遠は、「竹島」と「島頂」を調査した時の状況を記録し、「二小島有り。形、臥牛の如し。而して一つは右旋をなし、一つは左旋を なす」としている。右旋の「島頂」と左旋の「竹島」は、鬱陵島の東辺にある。松竹島と于山島も「鬱陵島の東に在り」との記録が 「鬱陵島検察司日記」にある。    ・このように松竹島と于山島は記載が無く、竹島と島頂の記載だけだが、いずれも「鬱陵島の東に在り」という方向が一致している。 このことから松竹島と于山島は、竹島と島頂のどちらかということになる 2) 歴史地図に見る竹島 (1) 18世紀中期の 「竹島」は、鬱陵島の東にあり、「所謂于山島」の注記がある。 (2) 李奎遠の「鬱陵島外図」 「竹島」とする島に「所謂于山島」の但し書きがある (3) 安龍福の証言との一致 この「竹島」=「所謂于山島」は、先 (第2章 4-2))の安龍福の証言(「今回往った島(鬱陵島)から北東に大きな島がある。 彼の地(鬱陵島)に滞在中、ようやく二度、その島を見た。その島を知っている者が言うには、于山島と言うそうだ。」)と 符号する。 3) 「鬱陵島検察司日記」にある「竹島」と「島頂」の描写 (1) 竹島 「雑卉(草)腐生し、高さ数百丈と為す。広さ数□(欠字)之地と為し、長さ五六百歩と為す」 (2) 島頂 「稚竹叢有り」 4) 両島は、今日の島では?    「鬱陵島検察司日記」の描写と「鬱陵島外図」にある位置関係から次のように想定できる。 (1) 竹島:竹嶼 (2) 島頂:観音島 5) 現在の竹島(独島)まで行ったか? ・行っていない。10日、道方庁を経て、鬱陵島の沖合を西に進み、小黄土邱尾に到る行程から言って、現在、日韓間で係争の 地になっている竹島には、行っていない。 ・李奎遠は、鬱陵島の最高峰、聖人峰(984m)に登り、周囲を見渡し「四望し、海中の嚮(きょう=先)に一点の島嶼の見形無し」と 「鬱陵島検察司日記」で報告している。つまり李奎遠は、竹島(独島)を目撃していない。 6) 于山島とは? 以上から李奎遠の調査では、于山島は、鬱陵島近傍の「竹島(竹嶼)」であり、竹島(独島)ではないことは、明白である。 7) 鬱陵島の郡への昇格 ・日本政府の鬱陵島渡航禁止措置にも関わらず、日本人の渡航が続いた。その結果、日朝の雑居問題が深刻化した。このため 大韓帝国は、禹用鼎を鬱陵島に派遣し、その報告を元に1900(明治33)年10月25日、鬱陵島を「鬱陵郡」に昇格し、郡守を常駐 させた。この時、鬱陵郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島、石島」とした(大韓帝国勅令41号による)。 ・大韓帝国は、鬱陵島に竹島と石島の二つの属島があるという認識をもっていた。 ・当時、日朝共、竹島(独島)を「リャンコ島」と呼んでいた。したがって勅令41号にある竹島は、李奎遠の報告書にある竹島、 現在の竹嶼と理解できる。ただし、石島がどこを指すか、判然としない。 5.石島を竹島(独島)と主張する韓国 1) 発音が似ているという理由 1952年、李承晩ライン(平和線)が設定されると日韓に竹島(独島)の領有権問題が発生した。領有を主張する韓国政府の根拠の 一つが、勅令41号である。同勅令でいう石島の「石」は、独島の「独」と韓国語音が近いという理由(「ソク」と「トク」)から、石島は 独島であると主張した。    2) 勅令41号が出たときの独島の呼称 (1) 「リャンコ」島であった。韓国で独島という名称は、1904年以降*である。したがって勅令41号にある石島は、現在の 独島を意味していない。 *1904年9月25日付軍艦、新高の日誌:「韓人之を独島と書し、本邦漁夫等略してリアンコ島と称せり」 (2) リャンコ島は、西洋人としては初めて竹島(独島)を発見したフランスの捕鯨船、リアンクール号に由来する。これ以降、 リャンコ島が通称となった。(1903年刊行の「韓海通漁指針」には、「松島(竹島)のことを『韓人及び日本漁人は之を ヤンコと呼んでいる』と記載がある。」) *発音を理由に独島を石島とする韓国政府の主張は、歴史的事実を無視した牽強付会(けんきょうふかい=自分の都合の 良いように理屈を無理に付けること)の説である。 3) 竹島を朝鮮領と認識していなかった証拠      ・李奎遠による実地踏査、朝鮮政府の勅令に見られるように朝鮮は、竹島を朝鮮領と見ていなかった。その他にも次のような 証拠がある。 (1) 1900年9月23日付(勅令の発布前、1ケ月)「皇城新聞」 「鬱陵島に付属する小六島中で最も顕著な島は、于山島と竹島」とし、「リャンコ島」は、無い。この時には、まだ竹島 (独島)を竹島とは、呼んでいなかった。ここにある竹島は、李奎遠の鬱陵島に対する地理的認識を踏襲している。 すなわち前年(1899年)に刊行された玄采の「大韓地誌」でも、李奎遠の認識が踏襲され、東経130度の鬱陵島を朝鮮の 東の極限としていた。(現在の竹島は、東経、約132度で入らない。) (2) 1899年、大韓帝国学部編集局が制作した「大韓全図」も同様のことが言える。 (3) 1898年、「大韓與地図」も同様。 *これら地図でも現在の竹島は、朝鮮領と認識されておらず、記載もされていない。加えて「大韓全図」は、 1831年成立の「鬱陵島地図」では「所謂于山島」としていた竹嶼を「いわゆる」の語を省き、于山島と明記している。 6.近代における鬱陵島と竹島    ・1869(明治2)年の版籍奉還、それに伴う対馬藩の長崎県への編入(1872年8月)により対朝鮮外交の役割が外務省に移った。 1) 報告書、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」 ・外務省出仕、佐田白茅が朝鮮視察から帰国し、以下の報告をした。 「此儀ハ、松島ハ竹島(鬱陵島)ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付、是迄掲載セシ書留モ無之。竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハしばらくノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候……」 ・ここで佐田は、松島も朝鮮領としている。しかし、朝鮮領とする書類については、「松島については、今までにそうした書類が 無い」としている。ここで松島を現在の竹島とすれば、不可解なことになる。それ以前、竹島(独島)が朝鮮領になった歴史的 事実が無く、領土紛争の対象にもなっていなかったからである。ただし、韓国側はこの報告書を「竹島(独島)は、朝鮮領」とする 理由の一つとしている。しかし、佐田の報告書当時、朝鮮側は、竹島(独島)を鬱陵島の属島と認識していなかった。 ・佐田白茅は、「朝鮮全図」(地図)を残した(現在、明治大学図書館に所蔵)。本地図には、鬱陵島と思われる島はあるが、竹島 (独島)は無い。佐田は、松島=独島を意図しない。 2) 松島(独島)に関する書留(書類)は無かったか? 例えば、次のような書類が有った。このことは、佐田も知っていたろうと推測される。したがって「書類が無い」とする松島は、 現在の松島(独島)ではないことになる。 (1) 齋藤豊仙、「隠州視聴合記」 (2) 宝暦年間(1801~1763)、北园通葊編述の「竹島図説」 「隠岐国松島」や「隠岐の松島」の記述がある。      (3) 享保年間(1801~1803)、矢田高当の「長生竹島記」で「(松島は)本朝西海のはて也」とある。 3) 鬱陵島さえ日本領と認識していた(例) ・鬱陵島さえ日本領と認識していた日本では、竹島(独島)は、日本領として疑念を挟むところは無かった。 (1) 青木昆陽「草慮雑談」(1738年序) 「竹嶋(鬱陵島)を朝鮮へ与え給とかや。憲廟(徳川綱吉)の御仁政にて与え給といえども、地は少の所も惜しむべき ことなれば有司の過ちならんか」とし、鬱陵島を朝鮮領としたことは、幕府の失政と見た。 (2) 伊藤東涯「輶軒小録」 ・1696年、鳥取藩に密航した安龍福を尋問した鳥取藩儒者、辻藩庵が常々、鬱陵島について語っていたことを記録して いる。 「因州の管内に大屋、村河と云う両氏あり。所の土豪なり。百年前より公儀より符験を給わり、間年に彼島(鬱陵島)に 下り、海物を取り集め業とす。後にまた到れば朝鮮人多く集まり居て入る事を得ず。是より往来断絶せり。」 (3) 江石梁「竹島考」(1828) ・「国家の為に補い」となればとして編述した。永らく廃島状態であった鬱陵島を開いたのは鳥取藩という自負があった。 「異邦の漁兼が奸濫に依て、永く吾属地を奪攘せられ」たままになっていることに「心有る者」はどうして「惜し まないでいられよう」 (4) 松浦武四郎「竹島雑記」(1854年10月) ・海防上の観点から鬱陵島の重要性を認識した。松浦武四郎は、「鬱陵島は、元来我属島」とする見地から編述した。 「山陰地方を歴遊した際、土地の人士から鬱陵島に付いて聴聞し、その開拓には島の状況を知る必要がある。」 米露等が「此地(鬱陵島)に船を寄せ山陰の諸港に出没せば、実に其害少なからず」との危機感から鬱陵島開拓を 説いた。 (5) 吉田松陰「桂小五郎と久坂玄瑞宛て書簡」(1858) ・国防上の観点から、同様に鬱陵島の重要性を認識した。 「鬱陵島が英夷によって開かれればこれと交易をして外夷の風説を聴く事ができるが、そうでなければ何時 長門に来襲するか計り知れない。鬱陵島開拓は鎖国を破る妙案」 (6) 明治政府の認識 ・下総国印旛郡佐倉町、齋藤七郎兵衛がウラジオストック滞在中、松島(鬱陵島)開拓を貿易事務官、瀬脇寿人に 出願した。これにより瀬脇は、1877(明治10)年4月25日付け文書で外務卿、寺島宗則に打診した。 ・この間、外務省記録局長、渡辺洪基は、朝鮮で鬱陵島と呼んでいる竹島とは別に、松島という島があれば、日本領と みなすことができると意見したが、省内で結論は出なかった。 ・そこで外務卿、寺島は、軍艦天城を松島(鬱陵島)に派遣し、実情調査を決定した。この調査で、松島は鬱陵島と判明し、 この開拓話を立ち消えになった。 ・以上の経緯について北沢正誠は、「竹島考証」に記録して入る。 「竹島松島一島両名或いは別に二島あるの説、紛々、決せず」。「明治13年天城艦の松島回航するに及び」、「始めて 松島は鬱陵島にして、其他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知り事始めて了然たり。」 7.竹島(独島)と朝鮮人の渡航 1) 中井養三郎によるアシカ(海驢)猟 1903年5月、隠岐島の中井養三郎がリャンコ島(竹島)でアシカ猟を始めた。 2) 岩崎某(山口県)、アシカ(海驢)猟に参加 翌1904年、岩崎某が鬱陵島の韓人を雇い、アシカ(海驢)猟に参加した。この年、猟に参加した者は、日本人54人、鬱陵島の 韓人16人、捕獲したアシカは1,800頭。韓人のリャンコ島(竹島)への往来は、この年が初めてであった。このアシカ猟の模様は、 軍艦、新高の「聴取リタル情報」が伝えている。 3) 中井養三郎領土編入願い    リャンコ島(竹島)でのアシカ猟は、すぐに過当競争になり、乱獲の弊害が出始めた。そこで中井養三郎は、1904(明治37)年 9月27日、「リャンコ島領土編入並びに貸下願」を内務、外務、農商務省に提出した。申請を受け、明治政府は、1905年1月28日の 閣議でリャンコ島を竹島と命名し、島根県の所属とした。これ以降、竹島の名称となった。 8.竹島の鳥取県編入後の波紋 ・ちょうど日露戦争の最中、竹島の日本編入(1905年2月22日)が行われた。このため第1章2で見たように日本の侵略性を教える 材料とされ、韓国の中学教科書に記載されている。既に見たとおり1900年、朝鮮政府の鬱陵島の郡昇格時、リャンコ島(竹島)は、 鬱陵郡に含まれず、同島は19世紀から20世紀にかけてどの国にも属さない孤島であった。 1) なぜ「侵略」との認識が出たか? (1) 端緒 ・鳥取県知事の命を受け、鳥取県第三部長、神西由太郎が44名の随行員と竹島視察に出た。1906年3月22日、松江を出航、 同27日、竹島に到着した。一行は、島に上陸し、調査を行ったが、天候が悪化したため、鬱陵島の道洞に避難した。 ・神西部長ら十数名が、鬱陵郡守、沈興澤を表敬訪問した。この時、日本側から「竹島は、日本領になった」との発言が あった。これにより沈興澤は、江原道府への急報した。 (2) 沈興澤の江原道府への報告 「本郡所属の独島は、本郡の外洋百余里にあるが、本月4日の辰(午前4時)の頃、輪船一隻が道洞浦の来泊し、独島が 日本領になった~」 (3) なぜ「本郡所属」か? ・勅令41号の発令時(1900年10月)、リャンコ島と呼ばれた竹島(独島)は、鬱陵郡の行政区域には入っていなかった。 しかし、1906年3月、鬱陵郡守、沈興澤は、本郡所属とした。なぜか? ・1905年9月、大韓帝国内で発刊されていた新聞、「大東新報」が「今日の鬱陵島の盛況は、日本人の貢献による。 そもそも鬱陵島は、日本原有の地である」と報道。これに対し同年9月22日、「大韓毎日申報」が、「一言半辞も無く、 一朝に惣然と日本原地と声明するのは、甚だ該く(おどろく)べく歎ずべき事」と反論した。こうした報道によって、 朝鮮内で急に鬱陵島への関心が高まった。 ・こうして鬱陵島の日本領化に対する韓人の警戒心が醸成する中、「竹島を日本領とした」話に、沈興は「竹島(独島)は 本郡所属」と誤解して、急報したと思える。      (4) 一人歩きを始めた「本郡所属」        ・その後、日本官員の鬱陵島訪問と「本郡所属」が、「大韓毎日申報」、「皇城新聞」に報道され、「本郡所属」が朝鮮内で一人 歩きを始め、今日につながった。        ・後日、「皇城新聞」の記事で独島のことを知った黄玹は、一人歩きした「本郡所属」と合わせ、自著の「梅泉野録」で 次のように言っている。ここでは数年前に発令された「勅令41号」すら検証していない。        「鬱陵島を距たること洋東百里に一島有り。独島という。旧鬱陵島に属す。倭人その領地を勒称(強引に主張)し、審査以て去る」 第4章 現代の竹島-対話の拒否と事なかれ主義 1.「過去の清算」と「李承晩ライン」 1) 日本敗戦後の竹島の帰属    1945年、日本の敗戦によって日本は、連合国の統治下に置かれた。連合国総司令部(GHQ)は、1946年1月、訓令第677号で竹島を 日本領から除外し、日本列島と朝鮮半島の間に引いたマッカサーラインでも、朝鮮側に含めた。 2) 申爽鎬、「独島の来歴」(思想界に掲載)に基づき、経緯を確認する ・1947年7月11日、米国極東委員会が対日政策を発表した。この際、日本側が竹島を日本領と主張した。これにより韓国側、独島 (竹島)帰属問題に関心を示した。    ・1947年8月16日、韓国山岳会主催による第一次調査団を独島に2週間派遣し、韓国内で急に独島に対する関心が高まった。    ・1950年6月25日、朝鮮動乱が勃発し、韓半島は混乱状態になった。そうした中、竹島(独島)は、日本領に復帰した。 3) 塚本孝、「平和条約と竹島」(レファレンスに掲載)に基づき、その後を確認する ・訓令第677号とその後の講和条約草案でも、竹島を朝鮮領としが、1949年11月14日、日本側の要請を受けたシーボルト 駐日政治顧問が「竹島は、もともと日本領だった」との提言を米国国務省に行った。 ・サンフランシスコ講和条約、第2条(a)項「朝鮮の領土の規定」に竹島が記載されず、朝鮮から除外された。(草案は朝鮮政府に 示されなかった。連合国は、朝鮮とは交戦状態になかったため、講和の対象にならないとの理由による) ・1951年1月26日、韓国政府は独自に「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を定めた(兪鎮午、「韓日会談が開かれるまで」/ 思想界)。 ・1951年3月下旬~4月初旬、法務長官、洪璡基が講和条約草案の掲載紙を入手し、兪鎮午と共にその内容を検討した。この時、 問題になった点は、次の2点。 ①第4条(a)項 帰属財産(韓国内に残留した日本、日本人帰属財産/80~90%) ②第2条(a)項 領土(独島の記載が無かったため、危機感を募らせた。) ・そこで第1章3-6)の通り、歴史家、崔南善に「歴史的に見て、わが国の領土として主張できる島嶼は、どこか」確認し、 崔南善から独島の来歴について「確信できる程度の説明」を受けた。ただし、崔南善は、李承晩大統領が言う「対馬島も 朝鮮領との主張」については、歴史的根拠が無いと否定した。 ・この時、「木浦、中国の上海、日本の長崎を結ぶ三角形の中間点に波浪島がある」という説明があった(実は、無い)。 兪鎮午は、「もし波浪島を朝鮮領に対日平和条約に明記できれば、朝鮮領は、済州島以西に領域を拡大できる」と喜んだ。      ・兪鎮午は、「対日講和会議準備委員会」の席上、「日本から除外される地域は、済州島、巨文島、鬱陵島」の条文の変更と 合わせ「独島と波浪島を平和条約第2条に加える」修正案を米国政府に提出した(1951年6月初旬)。      ・1951年7月12日、韓国政府は、日本の対馬領有権を放棄することなど加えた十項目の覚書を送った。      ・その後、韓国政府は、領土拡大の主張を数回、米国政府に行ったが、講和条約第2条の領土規定には、終に竹島(独島)は 認められなかった。      ・講和条約への竹島(独島)の明記ができなかった李承晩大統領は、1952年1月18日、「隣接海洋の主権」を主張し、 公海上に李承晩ライン(平和線)を宣言し、竹島(独島)に編入した。   4)  李承晩ライン(平和線)を急ぎ、設定した理由      ・こうした朝鮮領土に関する自分(韓国政府)の主張が国際的に認められなかった李承晩は、急遽、公海上に李承晩ライン (平和線)を設定した。兪鎮午は、「韓日会談が開かれるまで」で、その理由を次のように語っている。      ・「サンフランシスコ講和条約が批准、発効するまで(諸懸案が未解決のまま)持ち越されれば、それ以後は日本の態度が 強化され、容易に懸案の解決に応じることが無い。平和条約が批准される前、即ち日本が未だ占領下にある間に決着を 付けることが韓国には有利だと考えた。」      ・こうして竹島(独島)は、日本が主権回復する前、どさくさに紛れ、韓国領に編入された。      ・この李ライン(平和線)は、その宣言直後から米国、英国、中華民国等からも違法性が指摘されている。以後、韓国政府は、 李ライン(平和線)侵犯を理由として日本漁船を拿捕し、船、漁具の接収、漁民への体刑を実施し、日韓関係を悪化させた。 5) 李ラインへと日韓国交正常化交渉    ・1952年1月18日李ラインが宣言されると日本政府は、同月28日、その不当性を抗議した。その2週間後、日韓正常化交渉が 始まったが、李ライン、竹島は、日韓正常化交渉で韓国側を有利にする交渉カードとして使われることになる。    ・以下、高崎宗司、「検証日韓会談」と高麗大学校亜細亜問題研究所編「韓日関係資料集」(第1輯)(第2輯)による交渉の経緯で ある。    [第1次正常化交渉] ・主要議題:「在韓日本人の財産請求権」    韓国側は、当時の国際慣例を無視し、日本人の個人資産の請求権を拒絶した。両国の意見は、 全くかみ合わなかった。ただし、「在日韓国人の法的地位」と「漁業問題」に関する委員会設置が決定した。 1953年1月6日、第2次正常化交渉の再開を約し、4月24日、閉会。       [第2次正常化交渉のための予備交渉]      ・1953年1月27日、予備交渉が始まった。しかし、その直前の12日、「平和線」内の日本漁船の拿捕を指示し、 2月4日、第一大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺された。この結果、日本の対韓国感情は、悪化した。      ・予備交渉は、李ラインの撤廃を求める日本と存続を主張する韓国の間で進展を見なかった。      ・3月9日、日本の外相、岡崎勝男が金溶植駐日公使に「第一大邦丸事件と漁業問題の解決に努力する用意が見えれば」 会談の用意があることを伝え、第2次正常化交渉の開催が決まった。      [第2次正常化交渉](1953年4月15日開始) ・交渉は、決裂した。それは、会談開始直前の2月27日、韓国政府は、独島(竹島)の領有権を宣言し、日本側を刺激 したことによる。      ・韓国政府の領有声明を受け、6月27日、日本政府は、巡視船「くずりゅう」、「のしろ」を竹島に送り、 「島根県隠地郡5箇村竹島」の標識を立てた。      ・これに対し韓国政府は、外務部長官、卞榮泰が「独島は、日本による韓国侵略の最初の犠牲の地」として、 「日本が独島を奪おうとするのは、韓国を再侵略することを意味する」との強い声明を出した。      ・7月12日、韓国政府、「独島警備隊」の派遣を決議、日本の官船に発砲する事件を起こした。      ・こうした経過の後、韓国側の対応は、ますます先鋭化し、李ライン内の日本漁船の拿捕が増えた。      [第3次正常化交渉](1953年9月24日、日本の再開申し入れ)      ・既に見た通り、米英中などから国際法における違法性を指摘される中で、10月13日、韓国側は「李ラインは、 国際法上、認められたもの」と強弁した。      ・財産請求権は、以下の状況であった。終戦後、日本人は、連合国総司令部から強制帰国を命じられ、個人資産を そのままに帰国した。国際慣例から日本政府は、そうした個人資産は日本人の資産と見た。逆に韓国は、植民地 支配による収奪の結果として、全て没収するとした。(実は誕生したばかりの韓国[政府]は、日本人財産を返還 した場合、成り立たない。韓国側は、最初=1951年から 没収を方針とした)      ・日本人の財産を返還しないとする一方、韓国側は、日本に住む韓国・朝鮮人の日本定住を認めさせようとし、 法的地位の確立を求めた。戦後、彼らは強制帰国とならなかったばかりか、逆に朝鮮動乱などによって朝鮮半島 からの密航者が増加し、1952年には検挙者は、2, 261にも達した。      ・10月15日、日本側首席代表、久保田貫一郎が「日本の朝鮮統治は、朝鮮人にも恩恵を与えた」との発言した。 これを韓国側は、「過去の歴史を反省しない妄言」と非難し、会談は決裂した。      ・こうした会談の間にも、日本漁船の拿捕は、ますます増加した。[最終的に拿捕された日本漁船、233隻、抑留漁民、 2,791人、死亡した漁民、5人、沈没漁船、3隻、韓国側が没収した漁船、173隻になった] ・韓国側は、久保田発言の取り消しと公式謝罪を強硬に求め、第三回正常化交渉は、分裂した。      ・韓国政府は、1953年12月12日、「漁業資源保護法」を公布し、後付的に日本漁船の拿捕に対し法的根拠を与えた。 さらに1954年に入ると、曹成煥外務次官は、日本政府に李ラインの承認と日本人の財産請求権の放棄を迫った。      ・竹島についても韓国政府は、次々と既成事実を積み重ねた。      ①1954年6月11日、独島(竹島)に海岸警備隊を派遣 ②1954年8月10日、無人灯台に点灯 ③1954年9月2日、独島(竹島)を武力占拠       これに対し日本政府は、韓国政府に国際司法裁判所に提訴することを提議したが、10月28日、 韓国政府は拒否した。      ④1954年9月15日、独島(竹島)をデザイン化した切手、3種を発行 *韓国政府の現在の公式見解は、「日韓の間に領土は存在しない」というもの。 2.「近くて遠い国」になった   ・戦前を知る年配の韓国人に聞くと「近くて遠い国」という常套句が使われるようになったのは、戦後のことのようである. なぜこうした言葉が出るようになったのか? 1) 戦後の在日韓国・朝鮮人による「悪者」イメージの形成 ・以下は、鄭大均 立大教授が著した「韓国のイメージ」(一部分)基づく/村井 (1) Harvard大学 Edward Wagner教授(朝鮮史) 「戦後の日本において、朝鮮人少数民族は、いつも刺激的な勢力であった.朝鮮人は、依然として実に口喧しい、 感情的・徒党的集団である.かれらは、絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りを しようとした.朝鮮人は、一般に日本の法律は彼らに適用され得ないものとして、アメリカ占領軍の指令も同じように ほとんど意に介さなかった.そのため、日本国内に非常な混乱を起こした.~日本経済再建への努力をたびたび阻害 した.教育改革も朝鮮人が妨害した.~」 「全ての朝鮮人の不法行為は、小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖によって拡大された.何の関係も ない朝鮮人分子が加わって暴徒と化した例は、極めて多い.朝鮮人の犯罪性は、日本人の目には朝鮮人の無法さをより 鮮やかに示さずにおかなかった.~略奪行為、不法入国に伴う伝染病の持込など、日本人に不安感を与え、 朝鮮人は「悪者」という心理を作った.」 (2) 毎日新聞社編、「白い手、黄色い手」1956 「“もう日本人じゃない”日本降伏の直後、真っ先にこう叫びだしたのは在日60万の朝鮮人だった.~彼らは、 敗戦国に乗りこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱に付け込んで我が物顔に振舞い始めた.~(彼らの 不法行為について)完全な無警察状態-.」 *ここで朝鮮人が「もう日本人ではない」と言っているが、逆説的に言えば、日本の敗戦までは「韓国系日本人 Korean Japaneseであった」と叫んだこととも受け取れる。      (3) 田岡一雄、「田岡一雄自伝(電撃編)」1982        「彼ら(朝鮮人)は、闇市を掌握して巨大な利益を上げ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた. ~無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする.~腰には拳銃を下げ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの 凶器を引っさげた彼らの略奪、暴行には目に余るものがあった.警官が駆けつけても手も足も出ない. 「俺たちは戦勝国民だ.敗戦国の日本人が何を言うか」警官は、小突きまわされ、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ.~」 2) 増幅した韓国・朝鮮人に対する悪者イメージ ・ こうして形成された増幅した韓国・朝鮮人に対する悪者イメージは、李ラインと日本漁船の拿捕、竹島に関する一連の 韓国政府の措置は、日本の一般国民感情を怒りのレベルにまで押し上げた。「開放民族と主張し、(無警察状態の行動を 取ることは)敗戦による敗北感情にとらわれていた当時の大多数の日本人の神経を逆なでし、苦々しくすることであった。 ~在日朝鮮人自身によって(中略)自己の言動や生活態度を省察しようとする作業がなされるまま、日本および日本人の 植民地支配の責任のみが追及される状態は、健全なものとは言えないであろう」(前掲書)     ・ 数回にわたる国交正常化交渉は、領土問題(竹島)のことになると、韓国側は、日本の「領土的野心」、「右傾化」、「軍国主義の 復活」とし、感情的反発のみであった。    ・ 1996年2月9日、韓国政府の竹島 (独島)への接岸施設建設計画に日本の池田外務大臣が抗議した。その翌日、当時の 金泳三大統領は「われわれはこうした妄言を決して許さず、今後も断固として対処していく」との論評を発表した。 韓国マスコミも同様の報道姿勢を採り、韓国各地で日本糾弾の嵐が竹島 (独島)吹き荒れた。    ・ 1997年11月6日、竹島 (独島)の接岸施設が竣工し、続いて有人灯台の建設を始めた。 3) 論点のすり替え 国交正常化交渉は、在韓日本人の財産請求権、領有権といった主要議題は、「妄言」発言から日本の「領土的野心」、 「右傾化」、「軍国主義の復活」の議論、拿捕された日本漁船の返還交渉、漁業協定にすり替えられ、竹島の歴史的原有の 精査などは棚上げにされ、現在に至っている。こうして「近くて遠い国」の常套句が定着した。 第5章 争点の整理-何がどうくい違っているのか 1.「見える、見えない」が問題ではない ・ 日韓の間で竹島についてほとんど対話らしい対話がなく、そのため歴史の理解が一方的になり、その独善的な 歴史理解がさらに客観性を欠いた歴史認識を再生産してきた。しかし、わずかではあるが、歴史論争があった。 それを考察する。 1) 韓国側の主張(要旨) ①申景濬による「東国文献備考」の「與地志」の分註で、于山島を日本の松島としている。 ②この文註は、安龍福の証言より約40年前の「與地志」から引用したものである。 ③したがって、于山島を日本の松島とすることは、安龍福のみならず、当時の一般認識であった。 ④当然、それより古い文献、「東国與地勝覧」(1481年)、「世宗実録地理志」(1454年)に出てくる于山島も現在の竹島を意味する。 ⑤こうした地理誌は、朝鮮政府の官撰のものであるため、朝鮮政府が于山島を松島とし、朝鮮の領土と認識していたことは、 確実である。 ⑥「東国與地勝覧」では、鬱陵島とその属島の于山島を含む于山国は、512年に新羅に編入されている。したがって、松島(独島)は、 6世紀初めから朝鮮領であった。 2) 日本側の主張(要旨) ①「世宗実録地理志」の「蔚珍県条」に于山島について次の記述がある。      「于山武陵二島、県の正東の海中に在り。(分註)二島相去ること遠からず、風日清明なれば即ち望み見るべし。」      ・つまり于山島と武陵島(鬱陵島)は、蔚珍県の真東の海上にあり、二つの島は、あまり離れていない。鬱陵島と竹島は、 92kmも離れており、「遠からず」という表現は、不自然である。したがって、遠くない于山島は、鬱陵島近くの竹嶋と 考えるのが自然。     ②の「蔚珍県条」の記述も不審な点がある。      「于山島、鬱陵島(中略)。(分註)二島は、県の正東の海中に在り。三峯岌嶫(さんぽうきゅうぎょう)として空を撐(ささ)え、 南峯やや卑し。風日清明なれば即ち、峯頭の樹木及び山根の沙渚、歴々見るべし。風便なれば即ち二日にして到るべし。 一説に于山鬱陵本一島」      ・ここの于山島を竹島とする事は、無理である。天気快晴であれば、「峯頭の樹木及び山根の沙渚がよく見える」とある。 竹島は、岩礁から成り、砂浜や樹木は、無い。さらに「于山と鬱陵は本一島」との説が併記されている。つまり于山島と 鬱陵島は、同島異名であり、于山島を竹島とする説は成立しない。 *こうした日本の指摘に対し、韓国側は猛烈な反発を見せた。申景濬による「東国文献備考」の分註を絶対的な ものという前提に基づき、諸々の文献を解釈するため、韓国にとって「于山島は、竹島に違いない」となるからで ある。 3) 「見える、見えない」の議論 ・「東国與地勝覧」に「望み見るべし」とあることから、日本国外務省調査官、川上健三が、鬱陵島の低地から竹島(独島)が 見えないことを計算式から証明した。 ・ これに対し、韓国の李漢基は、「韓国の領土」(1969年刊)で、鬱陵島の高所なら竹島(独島)は見えることを示した。 ・ こうして「見える、見えない」問題には決着がつき、韓国では韓国側の文献解釈が正しいとされた。しかし、「見える、 見えない」の議論では、「どこから」の基点が問題だ。 4) 変化した基点をめぐる文献解釈 (1) 17世紀末、「東国與地勝覧」の「見える」についての解釈 朝鮮政府と対馬藩の論争において、朝鮮半島から鬱陵島が見えると認識された。 (2) 現在の韓国政府の解釈    「東国與地勝覧」の分註を「鬱陵島から竹島が見える」としている。 (3) 17世紀、「朝鮮半島から鬱陵島が見える」とした理由      ・朝鮮時代の地理誌は、編集に当たり全道的に統一された編集方針があったことによる。すなわち、 ・中央集権体制を採る朝鮮時代において地方統治の円滑化を図るため、各地の事情を正確に把握しておく 必要があり、そのためには地誌が不可欠であった。      ・地誌は、中央政府が編集方針(「規式」)を定め、それに基づき地方行政単位(道)で先ず編纂し、次に中央政府が 八道の地誌を合冊した。道編纂に際し、道の下位行政単位、州、府、郡、県等は、規式に従って調査が実施された。 [島嶼に関する規式の例/慶尚道地理誌] 「諸島は、陸地より相去る水路の息数。及び島中、前に在りて人民の接居、農作の有無。」このように 地誌では、陸地から島までの距離を明記することになっていた。     [規式によった記載例:興善島(慶尚道晋州牧、所管)] 原文、「陸地相去ること、水路十里。人民来住して耕作す」が、「新撰八道地理志」を経て、「世宗実録地理志」で 最終的に「水路十里」だけになった。ここで「陸地相去ること」が削られているが、規式により基点が陸地で あることは誰にも分かるため。   [「東国與地勝覧」に見る興善島の記載例] 「州の南の海中に在り。牧場有り」 ・この記述は、「世宗実録地理志」の記述と異なる。それは、底本となった「慶尚道続撰地理誌」の規式、 「地理誌続撰事目」が「海島。本邑の某方に在り。水路幾里。陸地より本邑を去ること幾里」と記すよう定めて いたためである。     [「慶尚道続撰地理誌」(慶尚道晋州牧、所管)に見る興善島の記載例] 「一、海島、州の南、興善島。周廻61里、水路11里、陸地より官門に至る38里。田水田67結87負7束。民家17戸。」       ・島は、陸地からの距離(水路幾里)、その島を管轄する地方官庁から見た方向(某方)を記すことが原則であった。     [「世宗実録地理志」、「東国與地勝覧」を規式に則って読む] ・「、県の正東の海中に在り。」=「于山島、鬱陵島の二島は、(島を管轄する)蔚珍県の東の海中にある」となる。 ・「(分註)風日清明なれば即ち望み見るべし。」=「蔚珍県(陸地)から(鬱陵島が)見える」となる。     [南九萬、対馬藩藩士の阿比留惣兵衛、陶山庄右衛門の解釈]       ・鬱陵島領有権問題が発生した時、彼らは「東国與地勝覧」、「世宗実録地理志」を「蔚珍県から『歴々』 鬱陵島が見える」と解釈した。   5) 1996年、韓国政府は鬱陵島に独島展望台を建設し、1998年4月、展望台までのケーブルカーが開通した。竹島(独島)を 見るためである。韓国マスコミは、「これで確実に独島を実効支配できる」と報じた。しかし、「鬱陵島から見える」ことは、 領有権の根拠にはならない。正しく朝鮮の地理誌を読めば、「鬱陵島から見える」ことは、領有権と関係なく、蔚珍県から 竹島を見ることができないからだ。 2.我田引水的文献解釈 ・日韓の歴史論争には、文献批判を怠った恣意的解釈が多く見られる。以下は、この我田引水的な文献解釈から発生した 日韓の論点の相違である。   1) 日本側の研究 有志による竹島問題の研究が進められた。膠着状態になった領有権問題を打開するための資料とするためである。 ① 島根県職員、田村清三郎、「島根県竹島の新研究」、1965年刊 ② 外務省調査官、川上健三、「竹島の歴史地理学的研究」、1966年刊 ③ 大熊良一、「竹島史稿」、1968年12月 これ以降、日本側には竹島研究に大きな進展が無かった。 2) 韓国側の研究 韓国側研究は、上の日本側研究を批判する形を採った。 ① 李漢基、「韓国の領土」、1969年 ② 慎鏞廈、「独島の民族領土史研究」、1996年 3) 韓国学者による文献の読み替え (1) 既述の通り「東国與地勝覧」、「世宗実録地理志」にある「見える」の基点を蔚珍県(陸地)から鬱陵島(島嶼)に読み 替えた。 (2) 出雲藩 隠岐島 郡代、齋藤豊仙、「隠州視聴合記」(1667年序)の読み替え ・これは、竹島の歴史的権原を示す文献とした歴史書。すなわち同書「国代記」にある「日本の乾(北西)の地、 此州を以て限りと為す」とあることから日本政府は、「此州を鬱陵島と解釈した。」     [「隠州視聴合記」の記述]      ①隠州(隠岐島)は北海の中にあり。 ②是(隠岐島)より南、雲州(出雲)美穂(美保)の関に至ること35里。 ③辰巳(南東)、伯州(伯耆)赤碕浦に至ること40里。 ④未申(南西)、石州(石見)温泉津に至ること58里。 ⑤子(北)より卯(東)に至りては、行くべき地なし。 ⑥戌亥(北西)の間、行くこと二日一夜にして松嶋(現在の竹島)あり。また一日の程にして竹嶋(現在の 鬱陵島)あり。(中略)此二嶋、無人の地。高麗を見ること雲州より隠州を望むが如し。 ⑦然らば則ち、日本の乾(北西)の地、此州を以て限りと為す。 *これを文字通り読めば、齋藤豊仙は、自分が郡代(≒朝鮮の郡司のような地方長官)が努める隠州 (隠岐島)を基点にして、主要地区と主要島への方位、距離を記している。⑥では、「隠岐島から見て、 北西に日本領として松嶋(現在の竹島)と竹嶋(現在の鬱陵島)が あり、そこから出雲から隠岐島が 見えるように高麗(朝鮮)が見える。」と記している。当然、⑦で言う此州は、竹嶋(鬱陵島)を指して いることは、明白である。     [韓国学者の誤読] ・「此州は、鬱陵島を指す」とした日本側の学者らの見解に対し、李漢基、慎鏞廈の両氏は、 「隠岐島を日本の西北限界としていることは、明白。日本側が鬱陵島、独島を西北限界と誤読 している」と主張した。このように読めば、両氏が言うように「鬱陵島、独島は、高麗の領土」と なる。   ・両氏は、「隠州視聴合記」の記述の内、①と⑦だけ採用し、以上の結論を導き出した。しかし、 これは、韓国学者による明らかな誤読による結果である(恣意的誤読か?)。     ・なぜならば、⑦の「然らば」を無視している。「それならば、そうであるから」というこの文言は、 ①から⑥までの方向、距離を持った地理関係の結果を強調したものである。 そこで齋藤豊仙は、「以上の地理的関係から鬱陵島が日本の西北限界となる」と言って いることになる。     [「隠州視聴合記」編纂時の鬱陵島に関する日本の認識] 第1章4に見た通り、「隠州視聴合記」編纂時、鬱陵島は、日本領との認識があった。米子の大谷、 村川両家が鳥取藩から「往来手形」を得て鬱陵島へ出漁する際、隠岐島の出雲藩役所に立ち寄って いたため、郡代、齋藤豊仙は、当然、このことを知っていた。つまり齋藤豊仙も鬱陵島を日本領と 認識していた。 (3) 長久保赤水、「日本與地路程全図」、1779年(現在、明治大学図書館蔵) ・「日本本土とその附属地には全て彩色を施しているが、竹嶋(鬱陵島)と松島(現在の竹島)は、朝鮮半島とも 彩色していない」ため、『日本與地路程全図』は、鬱陵島と竹島は、朝鮮領とみなして描かれたもの」/ 堀和生(良心的日本人の一人) ・この説は、堀和生自身、認めているように、崔書勉の説を踏襲したもの。 [「日本與地路程全図」を精査する] 「日本與地路程全図」では、沖永良部島、青ヶ島、沖ノ島なども彩色されていない。しかし、長久保赤水は、 沖永良部島を「これより南百二十里、琉球国」と付記している。つまり日本領と認識していたが、彩色はして いない。従って、崔書勉が主張する彩色の有無だけでは、鬱陵島、竹島(独島)が日本領か、朝鮮領か不明。 ・「増訂大日本国與地路程全図」(鈴木驥園、1852年)は、「日本與地路程全図」の改定版である。ここでは、竹嶋、松島、 沖永良部島、青ヶ島にも日本本土と同じく黄色の彩色が施されている。長久保赤水が鬱陵島、竹島(独島)を どのように認識していたか、推測される。 ・「日本與地路程全図」の竹島(鬱陵島)の右上に「見高麗猶雲州望蔭州」(高麗を見ること、猶雲州より隠州を 除くがごとし)との記述がある。これは、齋藤豊仙「蔭州視聴合記」からの引用である。この文言から、長久保赤水は 、明確に鬱陵島を日本領と認識していたことが分かる。 (4) 林子平、「三国通覧與地路程全図」、1785 ・これは、日本とその周辺を描いた地図。日本海の中ほどに竹嶋があり、「朝鮮ノ持也」と付記がある。韓国側は、 これを採用し、「林子平もを韓国領と認めていた」と主張している。 ・竹島の呼称は、1905年以降であり、林子平が地図を作成した1785年には、松島であった。したがって、この竹嶋は、 鬱陵島である。 ・「朝鮮ノ持也」の竹嶋の図の脇に「此嶋ヨリ隠州ヲ望、又朝鮮ヲモ見ル」の文言がある。これは、「隠州視聴合記」の 翻案だが、「此嶋」が鬱陵島を指すことは、明白である。 ・以上の明確な2点から、韓国政府の主張は、根拠を成さない。 3.それでも韓国政府は…….. ・「隠州視聴合記」に基づき竹島を日本領と主張した日本側に対し、1956年、韓国政府は、「日本が鬱陵島方面を侵略して 時代のもので」、「証拠としては無効」とし、「此州」を鬱陵島とした日本政府の見解を誤読と決めつけた。 ・「日本與地路程全図」の彩色の有無に基づいても同様の主張をする。 ・さらに「三国通覧與地路程全図」の「朝鮮ノ持也」に基づいて、こうした主張をする。 4.「良心的日本人」の出現 ・筆者(下條正男)が、仁川大学客員教授の間、1996~1998年に「韓国論壇」誌で、韓国の研究者と竹島問題で論争した。 筆者は、これまでに見てきた通り、文献に基づく解釈によって韓国側の論拠の基本的欠陥を指摘した。 ・ところが筆者に対する韓国側の反論は、文献の検証結果に基づくものではなく「山辺健太郎氏や梶村秀樹氏、 堀和生氏などが、良心的に、明白に実証している」ものであった。    ・良心的日本人は、自己の思想が先に立ち、それに合わせて歴史を認識し、文献を拾い読みする。(これは、村井の見解)。 加えて、堀和生が、自ら言っているように、韓国研究者の見解を無批判に受け入れている。こうして韓国政府の期待する ところに合致する見解を示す研究者(韓国側が言う「良心的日本人」)が出た。 5.「歴史認識」という厚い壁 1)  韓国側 ・歴史的権原の無い竹島(独島)を論拠希薄なまま、武力占拠し、次々の侵略行為を積み重ねている。 ・(村井見解) 竹島(独島)関連の話題が出ると、韓国民も感情的反発だけに終止する。その基本には、「植民地」としての 被害者意識がある。さらに彼らは、韓国政府、マスコミの見解、報道に無批判であり(というより批判することが許されない 国民感情)、恣意的に誤読にする曲学阿世の研究者に惑わされ、全てを「妄言」の一言で、議論を避ける。歴史の作り変えさえ、 許してしまう。対話を拒絶する政府の姿勢は、当初から一貫している。 2)  日本側 韓国側と真剣に話し合おうとしない。竹島問題は、「外交上、最も難しい問題」(佐藤栄作元首相)とし、この問題が浮上すると、 どうやってその場を繕うかということに汲々する。 このような両国にあっては、竹島問題は、解決するはずが無い。(韓国政府は、「解決を図らず、既成事実を積み重ねる」ことを 狙っているのではないか と疑いを持つ。) 事あるたびに浮上してくる問題を抱えたまま、建設的な未来志向型関係は、できない。 自分の票を気にする政治家を除いて、先ず理解を図るため、国民ベースで話し合いを進める必要がある。韓国にも冷静な人は いるはずだ(この節は、村井)。 以上 ●妄言(「広辞苑」/岩波書店/1977年版)「暴言に同じ。礼を失した、乱暴なことば。」 ●妄言(「漢和中辞典/角川書店/1959年初版」)「みだりに言うこと、でたらめなことば、いい加減なことを言う
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